第4章:仏教から人生の意味を考える

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章の全体像

4-1 仏教の目的

第 3 章で、我々は死んだら苦しみの世界を永遠と生まれ変わり死に変わりすることを示した。その原因を取り除き、六道から出離することが仏教における人間に生まれてきた究極の目的である。六道から出離したことを解脱とか涅槃と言われる。解脱とは、「束縛から解き放す」ということで、煩悩から解放されることを言う。涅槃とは、「煩悩の火が吹き消された状態」であり、解脱したならば、煩悩は二度と起こらないため、語義上は解脱も涅槃も同義である。

涅槃は大きく二つに分かれる。有余依涅槃と無余依涅槃である。有余依涅槃とは、涅槃に入っていても身体が残っている涅槃である210。釈迦は 35 歳で成道後、 80 歳で入滅するまで、身体を備えていたため、有余依涅槃であった。一方、無余依涅槃とは、肉体からも完全に解放された涅槃であり、釈迦は死とともに無余依涅槃に入った。さらに大乗仏教では、無住処涅槃を説く211。これは、生死を離れ、涅槃の境地に入りながら、あらゆる人々を救済するために涅槃の世界にとどまらず、活動する境界である。大乗仏教は、この無住処涅槃を究極の目的としている。「その身は生死輪廻の境界の中にありながら、しかもそれを超越して自由の境地を得ている」212。

無住処涅槃は、我々が死んでから入ることのできる境地である。というのも、 身体を備えている以上、我々は煩悩から離れきれないからである。それどころか、煩悩は死ぬ最後の瞬間まで、減ることもなく、一瞬でも止まることすらないと言 われる。

「凡夫」というは、無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず213

親鸞

故に、人間のことを煩悩具足と言われる。具足とは、「みち備わる」ということで「完全」という意で使われる。したがって、我々は完全な煩悩ということである。だから煩悩成就(煩悩で出来上がっている)とも言われる。

では、死んだ人は皆煩悩がなくなって涅槃の境地に入るのであろうか。それは六道を流転し続けているということに矛盾するため違うであろう。生きている時に死んだら涅槃に入る確約をされている人のみが、死後、六道を出離できると考えるのが妥当であると考えられる214。しかも、生きている時に確約されていなければならないから、煩悩はなくならないままである。これを曇鸞は、「不断煩悩得涅槃分215」と表している。涅槃分とは、涅槃に至る位ということである216。正定聚とか正性決定とも言われ、まさしく悟りが決定している人(位)のことを指す。我々が煩悩を断たずして、涅槃に入る確約をされる境地があるということである。

以上を簡潔にまとめると、我々の人間に生まれてきた目的を大乗仏教では「正定聚の位に入ること」とする217。では、仏教で言われる人間に生まれてきた意味は、第 1 章で定義し、条件付けした人生の意味に相応するのだろうか。そのことについて、次節で考える。

4-2 仏教の目的は人生の意味になるか

第 1 章で定義した人生の意味と、必要条件を再掲示する。

人生の意味の定義
「私が人間に生まれ、生きていく究極の目的は何か」

人生の意味の必要条件
①主観的かつ客観的に納得できる
②誕生肯定できる
③絶対的な意味を持つ

仏教の目的が①~③の条件を満たすならば、仏教の目的は、一先ず人生の意味と言うことができるであろう。それぞれを順に考えていく。

まず、①についてである。客観的な納得とは、論理のことであるから、死後の世界を論理で説明し、六道から出離することが人生の意味であるということには問題はないように思われる。主観的な納得とは感情のことであり、自分自身が「それが人生の意味だ」と納得できるということである。これをキルケゴールの言うような「私がそのために生き死にできる」という意味で解釈するならば、仏教の目的は、今を逃せば永遠と苦しみの世界を彷徨うことになる一大事を解決することであるから、仏教を信じる人にとっては満たすであろう。しかし、仏教でどれだけ論理や具体的なことを挙げて、真実と言われることを説かれていても、それを信じなければ六道出離と聞いても夢物語のようになってしまうため、仏教を信じない人には人生の意味と思えないかもしれない。

ここで仏教を信じるとはどういうことかを考えてみる。仏教の最も基本的な 教えは因果の道理であり、因果の道理から離れた教えはないのであった。という ことは、仏教を信じるということは、因果の法則を信じるということであり、因 果の論理を信じるということである。逆に仏教を信じない人は因果の論理を信 じない人ということである。因果の論理を理解し、それが正しいと思えるならば、それは仏教を信じるということに等しい。また、仏教は因果の論理で死後の世界 についての理論を形成している一方で、具体的な死後の世界にも言及している。この具体的な死後の世界は、心の徹底的な洞察を元にして説かれており、因果の 論理の重圧にも耐えうるものである。しかし、人間の心に関する内容(煩悩等) を受け止めることができない、もしくは分からない人にとっては、飛躍している ように感じられるかもしれない。したがって、仏教を信じるということは、因果 の論理と心の洞察が分かるということであり、仏教の目的が六道出離というこ とを理解できるということであり、それが人生の意味と納得できるということ である。反対に、因果の論理、心の洞察を理解できない人は、仏教の目的を人生 の意味とは納得できないであろう。

次に②についてである。仏教の目的は、単にこの世だけでなく、無始から流転し続け、今後も永遠と流転し続ける私の多生の目的であるから、その目的を達成したならば、「本当に生まれてきてよかった。このために生まれてきて、今まで生きてきた。これから生きていても満足だし、いつ死んだとしても後悔することはない」と言えるであろう。釈迦の弟子である舎利弗は、無量無辺不可思議劫の後に仏になるという予言を聞いて、歓喜したという218。まして、死後、仏になれることが定まっているのが正定聚であるから、歓喜は当然といえば当然である。

最後に③である。正定聚の位は、不退転位と言われ、絶対に退転することがない。退転とは、証ったはずの位を失うことである。正定聚はそのようなことがない位であり、どのようなことが起こっても決して揺らぐことのない位である。すなわち、死を目の前にしても、恐怖や不安で揺らぐことは絶対になく、死んだら涅槃に入るということが分かっているのである。故に正定聚の位に入るということは絶対的意味を持つと言えるであろう。また、涅槃の境地は、我々が欲によって満たす幸せとは次元が異なり、その幸せは不可称不可説不可思議と言われ、言葉にすることも説くことも想像することもできないと言われる。我々が理解できるのは言葉によってであり、比較する相対的な次元においてであるから、この涅槃の境地は絶対的なものと考えられる。

以上をまとめると、仏教の目的は、本当は全ての人に共通の人生の意味なのだが、仏教を信じない人はそれが人生の意味であるとは思えないため、人生の意味にはなり得ない。一方、仏教の論理を理解できる人にとっては、仏教の目的=人生の意味となり得る。

4-3 結論と課題

 本節では、本論全体を概観し、結論をまとめ、今後の課題を述べる。

 まず、第 1 章である。第 1 節では、人生の意味の言葉の定義をした。本論で扱う人生の意味とは、「私が人間に生まれ、生きていく究極の目的は何か」という問いであり、その問いに答えを与えるものである。第 2 節では、そのように定義される人生の意味は問われることがあるのかを検討し、第 3 節では、そのような人生の意味を本論で扱うことが有意味かどうかを考えた。そして、人生の意味かどうかを判断するために、本論で扱う人生の意味の必要条件を第 4 節で挙げた。すなわち、人生の意味と言えるためには、「主観的かつ客観的に納得できる」、「生まれたことを肯定できる」、「絶対的な意味を持つ」ことが必要条件として考えられる。第 5 節で、これらを満たすものとして幸福について考え、自足的な幸福が必要条件を満たすものではないかと提示した。しかし、自足的な幸福だけでは、具体性に欠けるため、それがどのような幸福であるのかを明らかにしたい。そこで、「絶対的な意味を持つ」という必要条件を「最悪の状況でも揺るがない」と言い換え、人間にとって最悪の状況と思われる「死」を手がかりにすることにした。

第 2 章では、死が我々の幸福にどのような影響を与えるかを考えた。まず、第 1 節で本論での死を扱う立場を明確にした。第 2 節は、死を客観的に観察し、死の持つ性質を浮き彫りにした。そのような性質を持つ死は主観にどのような影響を及ぼすのかを第 3 節で推測した。第 4 節では、死に関する二つの大きな主張について、議論した。第 3 節と第 4 節の結果、死が我々の幸福にどのように影響を与えるかは、死だけを考えていては分からず、死後の有無も考えなければならないことが分かった。

第 3 章では、死後は有るのか無いのかを考えた。まず第 1 節では、論理的に死後の有無を明らかにするために、因果律を使った。その結果、死後は無ではなく、何らかの意味で有(実体として有ではない)である必要があることが分かった。この理論に矛盾しない死後を仏教は具体的に説いており、それを第 2 節で詳述した。結局、我々の死後は、人間の本性と因果律を結びつけることで苦しみの世界にいくということが理解された。

第 4 章の第 1 節では、前章を踏まえて、六道を離れることが人間に生まれた意味であるとする仏教の目的についてまとめた。続く第 2 節でそれが本論で定義した人生の意味の答えになるかどうかを必要条件に照らし合わせて考えた。

結論として、「私が人間に生まれ、生きていく究極の目的」とは、「無始より流転してきた肉体ではない本質の私が、輪廻から解脱し、涅槃をうるために、現生で正定聚に入ること」である。ただし、これは仏教の立場からは全ての人の人生の意味になるが、個々人の立場からは仏教を論理と感情の両面で納得出来る人のみ人生の意味となる。

本論では、人生の意味が何かを考えることに重点を置いたため、どのようにしてその人生の意味が達成されうるかまでは述べることができなかった。また、一つ一つの主張を詳しく吟味することもできず、概論のようになってしまっている。特に、仏教以外に、本論の定義や条件に合う人生の意味がないかを考えることは必要である。今後の課題は、本論で述べた人生の意味を達成する道のりを示すことと、章・節・項それぞれの厳密な吟味をすることである。そして、社会に還元する方法を考え、実現させることも大きな課題であると思われる。

脚注・出典

  1. 服部純雄、1983、「『往生論註』における「得涅槃分」の一考察」、『印度學佛教學研究』、32 巻 1 号、pp.128-129
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  2. 曇鸞『浄土論註』( 大正蔵  四〇・八三六 c)
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  3. 涅槃と同じ意味で使われることもある。
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  4. 正確に言えば、大乗の中でも浄土仏教である。
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  5. 『法華経』譬喩品第三
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