第2章:死について

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章の全体像

 前章で、死を目の前にしても崩れない幸福があるとすれば、それが本当の幸福であり、人生の意味と言えるのではないか、ということで死について本章で扱うことにした。しかし、我々が考えているのは「人生の意味」で、生きているときの意味である。死を扱うことが生とどのように結びつくのかを第1節で論じる。第2節では、死を客観的な側面から論じる。第3節では、主観的に死がどのように感じられるかを考える。第4節では、死が人生の意味にどのように影響を及ぼすかについて考える。

2-1 生と死の関係

第 1 項:人生における死とは

 我々は、病気や事故で死ななくとも、必ず老い、やがては死んでいく。これに例外はない。心臓が 20 億回鼓動すれば死ぬというのは、生物学的な事実なのである83。しかし、常に老いた人を目にしているにも関わらず、実際に自分自身が老いを目の前にしないと老いたことが分からず考えられないように、死についても死の跫音を聞くまで死を考えることは幸か不幸か難しい。「幸」というのは、理屈で万人は死すという事実を知っていても、死を感じなくてよい間は事実を忘れて生きられるからである。「不幸」というのは、死を実感したときには、死について考える余裕は、時間的にも肉体的にも精神的にも残っていないからである。もちろん、観念と実感は違うため、平生健康な時と死に至る病気にかかった時とは、死を考えることは全く異なる。84

 しかし、古来「生死一如」と言われるように、生を突き詰めて考えることが死を考えることにつながるのではないだろうか。観念の遊戯だとしても、死を考えることは全くの無意味にはならないであろう。

 岸本は「人間が死すべきものである限り、すなわち、人間が、死という問題を抱いて生きている限り、死を忘れすぎた生活が、人間に、深い幸福をもたらすとは思われない85」という。これは岸本自身が死と対峙した時に出てきた言葉である。癌と宣告され、死が意識されたとき、岸本は「このような状況のもとにおかれて、私には、死というものを、どう考えたらよいかという問題が深刻になって きた。それをはっきりさせなければ、一刻も心を休んじていられない」86状態に なった。死を目の前にして恐れ慄き、どうしたらいいかをその時に考えていては、岸本が何のために死と向き合った闘病記を後世に残したのか分からない87。「普 段から死を思い死への心構えを怠らず、死を真剣に考え、死からの自由を貴しとし乍らも自然の必然性としてそれに服する」88ことが大事なのである。

 また、サルトルは、我々は死に対して責任があるという。

人生の終わりとして死を考える限り、死は「人生の最終の現象ではあるが、やはり人生」なのであり、「人生全体に影響をおよぼす」ものである。そして、死は「私の、、個人的な人生の現象であり、この現象が、この人生をして、唯一の人生、すなわち、二度と繰り返すことのできない人生、決してやり直しのきかない人生たらしめるのである。したがって、私は、私の人生に対してと同様、私の、、死に対しても、責任ある者となる」89。ここで、責任があるというのは、「私の、、人生たらしめるこの有限的な性格に対して、責任がある」ということである。90

サルトル

 いずれ向き合わなければならなくなる問題に、手遅れでは後悔してしまうだろう。後悔しないためにも我々は死をよく知る必要がある。

 ただし、本章では死を考える際、臨死体験や蘇生は死を経験したとはみなさない。なぜなら、臨死体験や蘇生とは、「いわばこちらの世界に戻ってくるから成り立つので、『死』とはこちらに戻ってこれない事態」だからである91。確かにほとんど死んでいたのだが、「かろうじて復旧を不可能とする一撃を逃れ」たのであり92、死自体を経験したわけではないのである93。

第 2 項:死をどのような観点から考えるか

 本稿では、死について、西洋哲学と仏教から考える。西洋哲学では、主に実存主義と言われる哲学者たちが実存について語るとき、そこには常に死が意識されている。実存主義の先駆けとなるキルケゴールは、「この私の生き死に」に関する哲学こそが大事だと言った。ノーベル文学賞をとったカミュは『シーシュポスの神話』の中で死という名の人生の不条理について論じている。第1章で記述したトルストイはもちろん、サルトルやハイデガーが死を扱っていることもよく知られているだろう。また、ヤスパースが哲学を始めたきっかけも「死とは一体何であるか」であった94。したがって、西洋哲学から死を論じることは妥当であろう。

 また、仏教では、無常を教えられ、この世のものは全て儚く、常であるものはないと説く。全てのものは無常であるが、我々にとって一番無常なのは、命である。聖光が「八万法門は死の一字を説く95」と言っているように、仏教では常に我々の死( 無常) を問題にしてきた。古来、禅門では、「生死事大、無常迅速、各宜醒覚、慎勿放逸96」と言われてきたし、道元は『正法眼蔵』の「諸悪莫作巻」に、「生をあきらめ死をあきらむるは、仏家一大事の因縁なり97」と書き残している。死を離れた仏教はないのである。ただし、仏教では死の捉え方が、実存哲学とは異なる。それについては、本章の最後に触れることにする。

 以上より、西洋哲学からも仏教哲学からも十分に死について考えることができることが分かった。次に、我々が死について扱うとき、岸本は二つの立場があるという。第一の立場は「人間一般の死の問題について」考える立場である。これは「一般的かつ観念的な」扱い方であり、客観的に死を見つめるということである。様々な人が死を分析したり、考察したりしているが、性質や学問的な記述、分析結果などは本稿では客観的なものとして扱う。もう一つの立場は「自分自身の心が、生命飢餓状態におかれている場合」の死の考え方である。これは死と向き合った時の感情であり、死への主観的な見つめ方である。これは観念的な立場とは全く異なり、「死刑囚の刑が最終的に決定するとか、神風特攻に出かけてゆく日がきまるとか、癌で手遅れを宣告される」といった「生存の見通しが絶望にならなければ」起きてこないものである98。

 東西の哲学を通して、本章では、まず第 2 節で客観的に死の性質について分析を行い、続く第 3 節で、その死の持つ性質がどのように主観として現れるのかを客観的に記述する。岸本の言う第二の立場は、その状態になった人しか記述できないため、その主観的な立場を筆者が記述することは難しく、故に主観的なものを客観的に述べるにとどまる。

2-2 死の客観的側面

第 1 項:死の人称性

 ジャンケレヴィッチは『死』で、死には三つの人称性があるという。それは、三人称の死、二人称の死、一人称の死である。

 三人称の死とは、死一般であり、「個人の立場を離れて概念的に把えられたものとしての自分自身の死」である。これは医学や生物学、統計の観点に立ち、死を記述・分析する視点である。第三人称においては、他者は自分にとって全く関係のない者であり、他者の死は目に入ったゴミの一つにしか過ぎず、せいぜい偶発的出来事にしか感じられない。

 その反対に位置するのが一人称の死である。これは、私自身の死であり、他の誰にも模倣不可能な死である。第三人称が客観性を持ち、平静に考えうるとすれば、第一人称は主観的に感じるものであり、「苦悶の源泉」である。この二つは前節で述べた二つの立場にそれぞれ相応するものである。

 三人称と一人称の間には、二人称の死という中間的な捉え方がある。二人称の死とは近親者の死である。他でありながら自分自身の死を最も身近に感じる死である。近親者の死を通して、死は間接的なものから直接的なものへと移行し、死が身近に感じられるようになる。

 この 3 つの人称の境界を明確にすると、三人称と二人称の死は、他者に対する 私の観点であるが、一人称の死は、私に対する私の観点であり、対象と主語とが 一致する視点である。この境界は明確であり、どれだけ身近な人の死であろうが、実は私の死からは程遠い。それは、私の死を他人が経験できないのと同様に、他 人の死もまた自分が経験することはできないからである。99

 本節は三人称、二人称という立場にたち、客観的に死を考える。次節では、一人称の立場から主観的な側面を考える。

第 2 項:死の持つ性質

 第 2 項では、死とはどのようなものなのかを主にハイデガーをもとに分析する。客観的な死の分析は、確かにジャンケレヴィッチや岸本の指摘するように、私が主観的に感じる死とは全く異なる。だが、それは客観的に分析された死が自分の目の前に現実として訪れた時に想像以上のものとして感じられるということであり、決して死の分析が役に立たないということではない。客観的に調べられた死はあくまで学問だが、そこからしか生きている我々には死を考える術はない。故に、現実に私に差し迫ったときの死は、客観的分析の範疇を超えるということを念頭において、死の客観的分析を行う。以下の分析では、死はどのようにして我々の問題となるのか、死とはどのようなものなのかをハイデガーの『存在と時間』から考える。

ハイデガーの死の分析の結論はこうである。

現存在のおわりとしての死とは、現存在が有する、もっとも固有で、関連を欠いた、確実な、しかもそのようなものとして規定されていない、追いこすことのできない可能性である。100

ハイデガー

 ハイデガーはここで、死とは「もっとも固有(代理不可能)」で、「関連を欠いた(没交渉)」、「確実な」、しかも「そのようなものとして規定されていない(未規定)」、「追いこすことのできない(追い越し不可能)」、可能性であると分析している。

a. 代理不可能性
 日常の事柄に関しては、我々が「他の現存在によって代理される可能性がぞく している事情については争う余地がない」し、「代理可能性が一般に可能である」。すなわち、「~かわりに」何かをすることができる101。しかし、死ぬことは、「~ かわりに」できるものではなく、「それぞれの現存在がそのときどきにみずから じぶんで引きうけざるをえないもの」であり、「そのつど私のもの」なのである。 この意味で、死とは、私自身の最も固有なもの102である。
 ハイデガーの分析によれば、私の死は、私以外の何者も経験できないものであり、何者も取って代わることができないものである103。

b. 没交渉性
 死が自分に差し迫ってきた場合、「現存在にあっては、他の現存在との関連のいっさいが絶たれている」状態になる。つまり、我々が死を前にして理解するのは、死の問題を「ひたすらじぶん自身の側から引きうけなければならないということ」なのである。「もっとも固有な可能性」として死は、「単独な現存在」を要求し、そのとき、「他者たちとのあらゆる共同存在が、ものの役にもたたない」ということを我々の前に露わにするのである。104
 ハイデガーが言うには、死の淵に際して、他者との交渉がなくなってしまう。死が最も固有な可能性、すなわち、自分自身(だけ)が引き受けるものであるため、他者は私の死に関して干渉することができない。死の直前までは一緒にいることはできるかもしれない。だが、「最後の瞬間はまさに道づれを許さない105」。また、無規定性とも相まって、死ぬ時期や死に方について相談をしたり、助けを要求したりすることもできない。

c. 確実性
 死は確実にやってくる。我々は、日常の中で死を「たえず現前する事件として、『死亡事例』として」公共的に見知っている。しかし、「ひとは死ぬ」という事実を我々が語るとき、「逃避的に」語るのであり、それは「ひとは結局はいつかは死ぬものであるけれども、さしあたりじぶん自身にはかかわりのないことだ」という意味が含まれている。「いつかは死ぬ」という点においては、死の確実性を承認しており、「だれひとりとして疑っていない」。これは信じ込ませられたわけではなく、日々経験しているのである。しかし、あくまで「経験的に確実であるにすぎず」、「目の前にあるものではない」ため、自分の死の確実性を隠蔽しているのである。106 死が確実であり、避けられないことは、確かに誰でも知っている。我々の人生の中で何より確実なのは死だからである。だから、普通は、自分が死ぬことを真剣に考えていないが、心の底ではいつか自分も必ず死ぬことを承認しているのである。ところで、死が必ずやってくるということは避けることができないということである。我々は死の原因となる具体的原因( 例えば、ガンや事故など)は避けることができるが、死自体は避けることは絶対にできない。ゆえに、「死は、それに対していかなる態度も取り得ないがゆえにつねに暴力的である107」のである。我々に反逆は許されず、全ての抵抗は無駄に終わる。このような事実を日常生活から知っているにも関わらず、我々はその確実性を自分のこととしては考えないようにしている。パスカルはそのことを見抜き、皮肉めいて、「われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っているのである108」と言っている。死から目を逸らすために、忙しくしたり、気晴らしをしたりするが、向かう先は変わらず、死という名の絶壁なのである。

d. 未規定性
 死の持つ確実性は「<いつなのか>が規定されていない」、つまり未規定的である。すなわち、死は「あらゆる瞬間に可能であるという性格」を持つ。これも日常性から我々は分かっているが、「いずれ、いつかは」と覆い隠してしまう。「現存在は実存する」ときには、すでに「死のうちに投げこまれている」ため、実際には「あらゆる瞬間に」死はやって来る。
 確実性と未規定性は一体のものであり、我々は「いつか死ぬだろうけれど、それはもっと先のことだ」と死を知らず知らずのうちに隠蔽している。しかし現実には、死はつぎの瞬間人を襲うかも知れない109。パスカルはそのことを知っていたため、「死より確実なるものはなく、死期より不確実なるものはない110」と言って遺言を書き遺している。
 また、そのような人間の状況をサルトルはパスカルの有名な死刑囚の例えを持ち出し、このように書いている。

「われわれの置かれている状況は、多数の死刑囚のあいだにいる一人の死刑囚の状況と同じである。彼は、自分の処刑の日を知らないが、日ごとに自分の囚人仲間が処刑されるのを見ている」。これは必ずしも全面的にその通りだとはいえない。むしろ、毅然として処刑に対する心がまえをなし、絞首台の上で取り乱さないようにあらゆる配慮をめぐらしている一人の死刑囚が、そうこうするうちに、スペイン風邪の流行によってぽっくり連れ去られるような例に、われわれをなぞらえる方が至当であろう。111

サルトル

 我々の中には、いつ来るか分からない死に対して、どうしようかと準備をする者もあれば、思考を放棄し全く考えない者もある。何をしようがしまいが、レヴィナス(Lévinas)の言うように、死が「暴力的」である以上、「いつでも不意打ちのような形で襲って」きて、我々は「取り乱して狼狽するだけ」なのである112。さらに、未規定であるということは、老若の関係がないということである。老 少不定のならいで、老いている人から死ぬわけでもなく、どれだけ若かったとしても「無常の風は時を選ばず」で、「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身113」となってしまう。

 もしかりに老年の死(あるいは明らさまな宣告による死)しか存在しないならば、私は、私の、、死を期待することができるであろう。けれども、まさに、死の特徴は、それを何時何時のこととして期待している人々を、期限以前に、つねに襲うことができるということである。114

 いつやってくるかは分からないが、いつか必ずやってくる、それは次の瞬間かもしれないのである。

e. 追い越し不可能性
 死の可能性は、人間存在のいわば最後の可能性であって、それを誰も追い越すことはできない。すなわち、死は現存在の極限のものであるため、その可能性を実現して経験をすることはできないということである。なぜなら、その可能性が実現してしまった時、現存在は現存在でなくなってしまうからである。「誰も死を経験したことがない」という言葉が意味するのは、まさにこの性質のことである。故に、死は我々にとって、「まったく最初の回」であり、「まったく最後の回」なのである115。

 以上がハイデガーの分析である。ハイデガーの分析による死の持つ性質を改めて載せておく。

現存在のおわりとしての死とは、現存在が有する、もっとも固有で、関連を欠いた、確実な、しかもそのようなものとして規定されていない、追いこすことのできない可能性である。

ハイデガー

 これらの性質を持つ死は生きている間は未だやって来ることのない「未了」のものである。これは、いつかはそれが補われて全体になるはずの不足分とは異なり、常に、一瞬一瞬、現存在に切迫しているものである116。

第 3 項:人間の状況

 本項では、人間が置かれている状況を仏教で説かれている一つの譬喩を通して考える。前項で見たように、我々人間はいつ死んでもおかしくはなく、生と死は触れ合っている。死の直前までは生であり、死んだならばそれは生ではない。生と死の境は線であり、棒ではない。また、過去、現在、未来と流れる時間の流れにおいて、唯一存在するのは現在しかない。というのも、過去は過ぎ去ったものを過去といい、未来はまだ来ていないものを未来というからである。死は過去や未来には訪れないが、現在には訪れる可能性を持つ。生も過去や未来にあるのではなく、現在にしかない。過去は記憶としてあるかもしれないが、本当に過去が存在するかどうかは不確実である117。未来は訪れる可能性しかないため、これもまた不確実である。確実なのは、現在、今、この瞬間のみである。この一瞬の現在に、生も死も内包され、一息一息に生と死がおさまっているのである。これが「生死一如」と言われる所以である。生きていると言っても、常に背後には死があるのである。この人間の状況は『仏説譬喩経(義浄訳)』や『維摩経』などで「黒白二鼠の譬喩」として描かれている。ここでは『総合佛教大辞典』を参考に現代語訳をしておく118。

広野で狂象に追われた旅人は樹根にすがって空井戸に隠れる。しかし、黒白の二匹の鼠が現れ、樹根をかじり、井戸の周りを見れば蛇がシャーシャー息を吐いている。下を見ると井戸の底には毒竜が口を開けて旅人を狙っている。そんな中、旅人は上から滴る蜂蜜に心を奪われ、自分の置かれた状況を忘れている。

黒白二鼠の譬喩

 これが釈迦の譬喩の内容である。旅人は、凡夫( 人間)を喩えている。狂象が喩えているのは無常である。この象は後世、絵画化される時に虎に代えられて描かれることが多かった。また、無常の怖るべきことは、無常の狼とか無常の虎と喩えられることがある。井戸は生死(苦しみ)、樹根は命、黒白二鼠は昼夜、蛇は四大、竜は死を喩えられている。最後、旅人が自分の置かれた状況すら忘れて夢中になっていた蜂蜜とは五欲のことである。無常に追われ、死が刹那に迫っているにも関わらず、その状況を忘れて快楽に身を委ねているのが我々の実相ということである。

 『大無量寿経』には「世人薄俗にして共に不急の事を諍い119」と説かれ、善導はそれを

人間怱怱として衆務を営み、年命の日夜に去ることを覚えず。燈の風中にありて滅すること期し難きがごとし。忙忙たる六道に定趣無し。未だ解脱して苦海を出づることを得ず。云何が安然として驚懼せざらん。120

善導

と言っている。我々には見えないだけで恒に「死王」と隣合わせなのが人間であるのに121、急がなくてもよいことに気を取られ、自分の状況を考えようともしない。これが我々人間の姿である。 以上、本節では死が客観的にどのようなものであり、人間とどう関係があるのかを見てきた。次節では、その死が実際に我々にどのように感じられるのかという主観的な側面を考える。

2-3 死の主観的側面

第 1 項:死の主観的側面を考える際の三つの立場

死の主観的側面を考える際に、大きく三つの立場・段階があると思われる。まず、死に面していない時の死の主観的側面、次に死が差し迫り自分のこととなっている場合の死の主観的側面、最後は今まさに死んでいくとき(臨終)の死の主観的側面である122。死はずっと同じように感じられるのではなく、それぞれの段階で異なって感じられるのではないだろうか。

自分が死に( 今まさに)面していない場合123、死はあくまで想像であり、他人の死以外は分かっていない。死に面していない人の中には、死を漠然と怖いものと思っている人もいれば、死を詳しく研究している人もいるだろう。どれだけ詳しく死について学んでいる人であっても、死を理解していることとは異なる。死について理解するとは、前節のようなことを理解することであり、それが分かったから死が分かるとはならないのである。

このことは自分が死に(今まさに)面している場合も同じである。この場合、面していない時よりも死の不安や恐怖がより一層感じられる。しかし、実際に死を経験しているわけではないので、死を想像して恐れているにすぎない。

第三の今まさに死んでいく状況では、それまでの不安や恐怖は極限に達すると考えられる。同時にそれまで考えていた死は、実際の死とは大きく異なるということが感じられると思われる。

このように第 2 節で扱った客観的な死の性質は、その状況によって主観的にそれぞれ違って感じられると考えられる。なぜそのように言えるのかを大きく生前(先の二つをまとめた)と臨終の二つに分類して考える。124

第 2 項:生前に感じられる死

死をどのように感じるか、主に恐怖(不安)125という感情から考える。これは、死に対する恐怖と死後に対する恐怖の二つに分けられる。死への恐怖とは、死による肉体的苦痛と死による精神的苦痛に対する恐怖である。死による肉体的苦痛とは、死ぬまでにもしくは死ぬ時に肉体に訪れる苦痛のことである。まだ生きている時には、自分がどういう風に死んでいくかということを想像する。「事故で死んだら痛いだろうし、癌は抗癌剤で大変だ。死ぬなら健康な時にポックリ死にたい。」これは死が訪れるまでに、もしくは死んでいく時に自分の肉体にかかる苦痛に対して恐怖を抱いているのである。だから、PPK(ピンピンコロリ)を幸福に老いる条件として願う人も多い126。苦しみも痛みもなく死ぬことができたら幸せというわけである。この死による肉体的苦痛は、前項の性質から考えると、死は確実にくるもので(確実性)、誰も交代はできないものであり( 代理不可能性)、経験したことがないため( 追い越し不可能性)、その時の苦痛を想像して恐怖を感じるのである。

死による精神的苦痛とは、死ぬことで自分の大切なものを失ってしまうのではないかという精神的な苦しみである。死とは不可逆性のものであるから、もう一度戻ってくることはできない。今持つものは全て自分から手放さねばならない。お金、地位、名誉、才能、家族、死ぬ時に一緒に連れ添うことができるものは何一つないのである。しかし、我々には執着する心があるから、今まで手に入れたものは全て我が身から離れていくと分かると、我々は恐怖を感じる。財布を失くしただけで怖くなるのだから、全てが失くなると分かれば尚更である。いつかは分からないが(未規定性)、いつか必ず(確実性)、自分の所有しているもの全てと別れなければならず( 没交渉性)、その苦痛を想像して恐怖を感じるのである。

次に、死後への恐怖( 不安)とは、自分が死んだら周りは大丈夫だろうかという身辺に対する不安や、死んだら無になるのか、それともどこかへいくのかという死後の世界に対する恐怖が挙げられる。

死・死後への恐怖や不安は、死に面していない場合よりも死に面している場合の方がより強く感じられるだろう。しかし、岸本が、意識のある限り、まだ自分は死なないと主張をし続ける127と言っているように、死に囲まれ、それに対する恐怖や不安を持ちながらも、まだ甘い蜜を吸っていることができると思っているのが我々の姿なのであろう。

第 3 項:臨終に感じられる死

臨終は、言葉の意味から「命がまさに終わろうとする時」のことであるから128、実際に臨終の人からどのように感じているかを聞くことは不可能に近い。推測にはなるが、前項を元に考えてみると、肉体的苦痛や精神的苦痛は、死を経験している( 臨終)時であるから、苦痛は今まさに経験しているはずである。したがって、これらに対する不安や恐怖はないと考えられる。そして、次の瞬間には死後になるから、それに対する恐怖はあると考えられる。また、仏教では、臨終の時に何をどのように感じるのかということを説いているので、それを以下に述べる。

まず、仏教では臨終に三段階あると説く。「命終の位に三種有り。一に明了心通して善悪無記の心を起す。二に自体愛唯有覆無記の心を起す。三には最後不明了心唯異熟無記の心有るなり129」。そして、それぞれの位に対応して三愛( 三つの執著の心)がある。三愛とは、境界愛、自体愛、当生愛である。「行者命欲終時疾苦逼身。必起境界・自体・当生三種愛心130」。

最初の臨終は、明了心位の臨終と呼ばれ、五感を感じることができない状態である131。そのため、必死に名前を呼ばれても、体に触られても、分からないのである。しかし、この際、意識だけは朧げながらある。「命終三位の中には第六識明了心の位に… 此の位の中には初は六識を起す後には意濁り明なり132」。この臨終に入る際、境界愛が起こり、妻子や財産など自分がこの世で執著していたものと引き離されることへの苦しみを感じる。「一には境界愛、謂ゆる必死の兆現前する時、その所愛の妻子眷属屋宅などにおいて、深重の愛を生ず133」。 次の臨終は意識の臨終と言われ、意識がなくなる臨終である。「ニには自体愛の位五識已に去り細の意識濁し残て昧劣なり134」。この臨終の際、自体愛が生じ、最後拠り所としている自分の肉体から引き剥がされることに苦しみを感じるのである。「ニには自躰愛、いわゆる身心いよいよつかれ、命まさに終らんとする時、さきの所愛の妻子眷属を捨て、ただ自躰を愛し己身の命を惜しむ135」。

最後の臨終は、不明了位の臨終と言われる。「三には不明了の位六識皆去て第八識のみ残て異熟無記なり。此位を名て最後終時となす136」。この際、次に生まれたい場所への愛著が生じ、それを当生愛という。「三には当生愛、いわゆるまさしく命終る時、中有の身迎え来るを見て、すなわちその当有の生を愛する137」。

三つの臨終におけるそれぞれの愛著は、私にとっての大きな苦しみとなる。

「この三種の愛その心を流動する故に、心に愁悩を生じ命まさに尽きんとする時、風力脈を解き、千苦相い迫むが故に、身は極苦を生じ、身心苦に遇う138」。

このように、臨終にはそれぞれの段階があり、その段階ごとに我々の持つ執著の心によって苦しみが引き起こされると説かれる。また、大無量寿経では、「大命将に終らんとして悔懼交至る139」と説かれ、命が終わろうとする時、後悔と恐れが交互に現れると言われる。後悔とは自分の人生に対するものであり、恐れとは自分の行く先に対する恐れである。前項で記述した恐怖と不安は臨終において最大のものとなり、死に直面している今、残る恐怖と不安は死自体ではなく、死後に集中する。「人間にとって何よりおそろしいのは、死後の世界があるか、ないかということより、あるかないかわからない140」ことである。死の直前までは、死に対する恐怖や不安( これは死の性質に対する恐怖や不安と言い換えてもいい)があるが、死の刹那には、死を経験している以上、それらへの恐怖や不安はない。しかし、死後はまだ分からず、次の瞬間に死後に突入するため、そのことに対する恐怖や不安は極限に達しているはずである。したがって、次に問題になるのは、死後の有無であると考える。

本節では、死を客観的に分析し、それが主観にどのように現れるかを考えた。その結果、死の性質に対する不安や恐怖は死を経験するまでは感じられ、死を経験している瞬間には死後に対する不安・恐怖が最も大きくなることが分かった。次章では死後があるのかないのかを論じる。

2-4 死から死後の問題へ

本節では、死は人生を無意味化するという考えについて吟味する。また、第 2項で本章全体をまとめる。

第 1 項:死によって人生は無意味になるか

 本項では、死によって人生が無意味になるという主張について考える。この主張は、言葉を補うと、「死によって無になるから、人生は無意味になる」と書き直すことができる141。死によって無になる、とは言い方を変えれば「死後は無い」という考えである。なぜ、死後が無いならば人生は無意味になると言えるのか。
 例えば、サルトルは音楽になぞらえて次のように言う。

(あるメロディの)最後の和音は、当のメロディーたるこの存在充実に付着している。もし最後の和音がないならば、このメロディーは宙にとどまるであろう。そして、終末のこの未決定は逆流して音符から音符へとさかのぼり、それらの音符のおのおのに未完の性格を与えることになるであろう。死は、つねに-この考えかたが当を得ているか否かは、いまだわれわれの決定しうるかぎりではないが-人生の終末と見なされてきた。死がかかるものと見なされるかぎり、或る哲学が、ことに、人間をとりまくところの絶対的に非人間的なものに対して、人間的な立場を明確ならしめることに専念する哲学が、まず第一に、死を、「人間存在の無」へ向かって開かれた一つの扉と見なすのは、当然なことであった。また、この無が、或る意味で、存在の絶対的な停止、もしくは非人間的な形態のもとにおける存在であると考えられるのも、当然なことであった。142

サルトル

メロディにおいて、最後の和音はメロディの存在を意味づけるものであり、それがなければメロディ全体が宙にとどまる。同じようにその人の死は、人生の最終末端であり、その人の存在に意味を付与するものとしてあるとすれば、死によって無になることは人生の意味を無にするものとして考えられるのではないだろうか143。逆に、死によって、むしろ人生を完成させられるということも考えられる。すなわち、自分の死に方を考え、自分の思うように死に、まさに有終の美を飾れるならば、その死は最後の和音を為すのではないか。これについて、サルトルはこのように反論する。

私は、私の死の瞬間が私自身によって定められるのではないということ、宇宙のもろもろの因果関係がそれを決定するのだということを、はっきりと知っている。そうだとすれば、われわれは、もはや、死が人生に外から一つの意味を付与する、などと言うことができない。一つの意味は、主観性そのものからしか、やって来ることができない。死はわれわれの自由を根拠としてあらわれるのではないから、死は、あらゆる意味を人生から除き去る、、、、、、、、、、、、、、、ことしかできない。144

サルトル

死が無規定に、暴力的にやってくるため、我々には死を選ぶ自由などない。だから、自分の望む死はやってくることはないのである。続けてサルトルは、自分の将来に期待して生きてきたが、結局一冊の本しか出せず、死んでしまった作家を例えとして出し、このように言う。

それらの総体-個々の行為、もろもろの期待、もろもろの価値-は、一挙に、不条理のなかにおちいる。それゆえ、死は、決して、人生にその意味を与えるところのものではない。むしろ反対に、死は、原理的に人生からあらゆる意味を除き去るところのものである。もしわれわれが死ななければならないならば、われわれの人生は意味をもたない。というのも、人生の諸問題は何らの解決をも得ることがないし、それらの問題の意味そのものが未決定のままにとどまっているからである。145

サルトル

サルトルの論理はこうである。「死は無規定にやってくる」、だから万全な準備をする間もなく、すべてに満足する前に、何らかの後悔を残しながら我々は死んでいかなければならない。しかも、それまで人生でしてきたことは生きている時には意味が感じられたとしても、「死によって無になる」以上、意味も無化する。だから、人生は無意味である。

カミュもサルトル同様、死により人間は無になるということから人生の不条理を描いている。

死という予測不能な出来事の、こうした基本的で決定的な側面が、不条理な感情の内容をなしている。死というこの宿命の破滅的な照明を浴びると、無益という感情があらわれる。ぼくらの在り方を定める苛酷な数学をまえにしては、いかなる道徳も、いかなる努力も、先験的に正当なりとすることはできないのである。146

カミュ

1 が 0 になるという数学の前に、人生の価値を正当化できるものは存在しな い。0 になることが決まっている存在にいくら価値を付けようと躍起になっても、

「無益」としかカミュ自身は感じることができなかったのである。

ショーペンハウアーは人生自体が苦しみ、不条理の連続であるから、死によって無になるのならば、死を選ぶべきだと明言する。

どのような人間の生活、、、、、も、これを総観すれば、悲劇としての性質を帯びている。人生というものは、通例、裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときにはもう遅すぎる過ち、の連続にほかならないことが、知られるのだ。147

ショーペンハウアー

もしも死によって全くの無になるのだということがたしかだとしたら、世の中がこのような性質のものである以上、無条件に死を選ぶべきものであろう。148

ショーペンハウアー

 ここで「死後は無いから、人生は無意味になる」という主張について考えてみると、この主張をする論者が反論しているのは「死後がある」という意見ではない。死後が無いという前提に立っているため、死後が有るということ自体がナンセンスになるからである。彼らが反論しているのは、「死後は無いとしても、人生に意味はある」という意見である。分かりやすく言うと、「死によって我々は無になる。しかし、だからこそ今の人生はかけがえのない意味を持つのではないか」ということである。だが、この二つの主張はどちらが正しいと言うことはできない。それは「死によって無になる」、「死後は無い」という証明がなされていないからである。したがって、これらの主張は、まとめて次のように書き換えられる。

死後が無いならば、人生は無意味になりうる

以上より、死によって人生は無意味になるという考え方は必ずしも取ることはできないということが分かった。

第 2 項:実存哲学と仏教の死の捉え方の違い

本章では、主に実存哲学から、死の問題を考えた。実存哲学の死の捉え方は、 仏教の死の捉え方とは、異なる。すなわち、本章で扱った実存哲学者たちは、生 れてから死ぬまでの今生だけを見て、人生の意味を考えるのに対し、仏教では、 死は終わりではないと考え、悠久の生命の流れの中での人生における意味を考 えるからである。今生だけを見れば、死で今の生は終わり、それまで手に入れた ものは全て失われるため、人生には意味が無いという考え方もとることはでき る。つまり、死後があろうがなかろうが、100 年の人生だけを考えると、人生は 無意味になりうるのである。もし、人生が無意味にならないとすれば、今の生が 死後と関わりを持たなければならない。その上で、人生に意味はあるのかどうか、あるとすれば何なのかが論じられる必要がある。そこで、次章では、死後がある のかないのか、死後は人生とどう関わりを持つのかを論じる。

脚注・出典

  1. 本川達雄、1992、『ゾウの時間ネズミの時間- サイズの生物学』、中公新書、p.6
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  2. 山口哲生、1992、「『メメント・モリ』における生と死」、『活水論文集.英米文学・英語学編』第 35 号、活水女子大学、pp.43-46
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  3. 岸本、『死を見つめる心』、p.141
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  4. 同上、p.271
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  5. ユングの次の言葉も同じようなことを示唆している。「成熟し、生理的存在の頂点に達しても、目標に向かう生命の衝動は決してためらおうとしないが、中年まで上昇してきたものと同じ強さ、同じ強固さで、人生は今や下り坂となる。なぜなら、目標はもはや頂点にはなく、下降しはじめている谷にあるからなのだ。( 中略) 戦ったり、征服したりしない若者は、青春の最大の長所を逸している。そして頂上から谷へ落ちていくときに、小川の神秘に耳をかさずにいる老人は、落下の意味を理解していない。」
    以上は、ユング、1973、「魂と死」『死の意味するもの』( ハーマン・ファイフェル編、大原ら訳)、岩崎学術出版社、pp.4-5
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  6. 八代祥吉、1993、「死の問題( 最終講義)」、『キリスト教論藻』25 巻、神戸松蔭女子学院大学、p.10
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  7. ただし、サルトルによれば、人生がやり直せないのは我々が死ぬ存在であるからではない。我々は「他の諸可能を排除して一つの可能へ向かって自己を投企する」が、それこそ自己を有限ならしめることである。故に、死に限らず、時間が不可逆であり、私が何か行為をする以上、ふたたび始めからやりなおすことはできない。この意味において、死のうが、不死であろうが、人生は有限である。( p.295)
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  8. サルトル、2007、松浪信三郎訳、『存在と無:現象学的存在論の試み』、ちくま学芸文庫、pp.260-261
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  9. 竹田青嗣、1997、『エロスの世界像』、講談社学術文庫、p.76
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  10. ジャンケレヴィッチ、1978、仲沢紀雄訳、『死』、みすず書房、p.373
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  11. もちろん、定義次第では経験したとも言えるかもしれない。ただし、本論ではそのようには考えない。
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  12. 笠井貞、1980、「道元とヤスパースにおける「死」について- 比較哲学的研究- 」、『印度學佛教學研究』29 巻 1 号、群馬大学、pp.77-82
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  13. 小西甚一校訂・訳、1970、「一言芳談」、『方丈記・徒然草・一言芳談集- 日本の思想5- 』、筑摩書房、p.322
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  14. 「生死は事大なり、無常は迅速なり、おのおの宜しく醒覚すべし、慎んで放逸勿かれ」と読む。禅宗の寺で見られる「巡照板」に書かれている「無常迅速の偈」である。
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  15. 道元、1990、水野弥穂子校注、『正法眼蔵( 二)』、岩波文庫、p.244
    ここで「あきらめ」と言われているのは、「諦観」である。仏教で「諦め」とは、明らかに見るということで、その本質をありのまま見るということである。
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  16. 岸本、『死を見つめる心』、pp.11-12
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  17. ジャンケレヴィッチ、『死』、pp.2-36
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  18. ハイデガー、2013、熊野純彦訳、『存在と時間( 三)』、岩波文庫、p.170
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  19. 但し、他者が「◯◯のかわりに死へとおもむく」ことはあり得ることであるが、これはその◯◯のかわりに犠牲になるということであり、死を取り除くことを意味はしない。( 同書、p.92)
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  20. これについてサルトルは、死ぬことは誰にも私に代わることのできない唯一の事柄であるというのは根拠のないものだと言っている。なぜなら、私が誰かを愛するということを考えてみると、「何びとも、私に代って愛することはできない」からである。仮にその「私の愛」を結果という観点から考察すれば、誰かが私の代わりにその人を愛するということは代理可能であるが、同様に死を結果( すなわち、教化のための死、祖国のための死) とすれば死も代理に可能になる。( サルトル、松浪信三郎、 2008、『存在と無』、ちくま学芸文庫、pp.264-267)確かにサルトルの言い分には一理あるが、ハイデガーは死が現存在にとっての最後の可能性であるということを考慮した上での最も固有なものとしたのではないだろうか。本論では、それを踏まえた上で、ハイデガーの分析をそのまま使うことにする。
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  21. ハイデガー、『存在と時間( 三)』、pp.90-93
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  22. ハイデガー、『存在と時間( 三)』、pp.135,191-192
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  23. ジャンケレヴィッチ、『死』、p.28
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  24. ハイデガー、『存在と時間( 三)』、pp.144-146、156-157、163-167、197-199
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  25. レヴィナス、1999、合田訳、『存在の彼方へ』、講談社学術文庫、p.138
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  26. パスカル、『パンセ』、p.120( 断章 183)
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  27. ハイデガー、『存在と時間( 三)』、pp.168-169
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  28. パスカル、1959、伊吹武彦・中村雄二郎・松浪信三郎訳、『パスカル全集Ⅰ 』、人文書院、p.369
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  29. サルトル、『存在と無』、p.263
    サルトルはここでパスカルの有名な囚人の例えのことを言っている。「ここに幾人かの人が鎖につながれているのを想像しよう。みな死刑を宣告されている。そのなかの何人かが毎日他の人たちの目の前で殺されていく。残った者は、自分たちの運命もその仲間たちと同じであることを悟り、悲しみと絶望とのうちに互いに顔を見合わせながら、自らの番がくるのを待っている。これが人間の状態を描いた図なのである。」( パスカル、『パンセ』、p.144( 断章 199))
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  30. 岸本英夫、『死を見つめる心』、p.88
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  31. 蓮如、『御文章』5 帖目 16 通(『真宗聖典』p.862)
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  32. サルトル、『存在と無』、p.270
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  33. ジャンケレヴィッチ『死』pp.338-340
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  34. ハイデガー、『存在と時間( 三)』、pp.97-118
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  35. ラッセルの世界五分前仮説はこのことを指摘している。( ラッセル、1993、竹尾治一郎、『心の分析』p.188)
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  36. 『総合佛教大辞典』、2005、法蔵館、p.1198a
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  37. 『大無量寿経』( 大正蔵  一二・二七四 b)
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  38. 善導『往生礼讃偈』( 大正蔵 四七・四四〇c)
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  39. 無常念念に至り恒に死王と居す。(『往生礼讃偈』大正蔵  四七・四四一 a)
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  40. ここで、生前と臨終の区別はかなり曖昧なものである。臨終とは仏教の言葉で言えば、臨命終時のことで命がまさに終わろうとする時のことである。また、本節では、死の瞬間=臨終として考える。
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  41. 過去に死ぬような思いをしたとしても、今の感情は死を目の前にした時の感情とは違うと思われる。
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  42. 本節では、死に対して恐怖や不安などを感じるということを前提に話を進めているが、そのように感じない人ももちろんいるだろう。その場合については、次節で言及する。
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  43. 恐怖とは、不安が極限に達した状態のことである。恐怖まではいかない状態は不安である。ここでは、恐怖に統一して論じることにする。
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  44. 綿貫登美子、2014、「多様化する高齢期のライフスタイルと生きがい- 高齢者の状況に配慮した就業促進と能力活用の取組み」、『千葉大学人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書』280 巻、pp.5-25
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  45. 岸本英夫、『死を見つめる心』、pp.103-104
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  46. 本項では、臨終とは、死ぬ瞬間、死んでいく刹那のこととする。これは死を経験している時である。
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  47. 了慧『大経抄』( 浄全 一四・一六五上)
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  48. 『黒谷上人語燈録』( 大正蔵 八三・一三九 a)
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  49. 厳密には五感ではない。詳細は第 3 章に譲る。
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  50. 義山、『大経随聞講録』(浄全  一四・四〇五上)
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  51. 千観、『十願発心記』( 佐藤哲英、1995、『叡山浄土教の研究- 資料編- 』、百華苑、 pp.198-199)
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  52. 義山、同書、同ページ
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  53. 千観、同書、同ページ
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  54. 義山、同書、同ページ
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  55. 千観、同書、同ページ
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  56. 同上
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  57. 『大無量寿経』( 大正蔵  一二・二七七 a)
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  58. 岸本英雄、『死を見つめる心』、p.28
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  59. 「死は全てを奪うから、人生は無意味になる」とも解釈できる。それについては、次項で検討する。
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  60. サルトル、『存在と無』、p.259
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  61. サルトルは、一方では、最後の和音は沈黙で作られている、すなわち、無も意味を構成している存在だという見方もできると言っている。ここでの前提は、終末としての死は人生に意味を付与する、もしくは取り除くということである。この前提は必ずしもそうとは言い切れない。
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  62. サルトル、『存在と無』、p.277
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  63. サルトル、『存在と無』、pp.277-279
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  64. カミュ、『シーシュポスの神話』、pp.32-33
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  65. ショーペンハウアー、2011、斎藤信治訳、「生きんとする意思の肯定と否定に関する教説によせる補遺」、『自殺について 他四篇』、岩波文庫、p.98
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  66. ショーペンハウアー、「自殺について」、『自殺について  他四篇』、pp.77-78
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