第1章:人生の意味について

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章の全体像

 本章は、本論で扱う「人生の意味」という言葉の意味を正確に定義し(第 1 節~第 3 節)、その意味における「人生の意味」はどのようなものであるべきかという条件を考える(第 4 節)。その上で、そのような人生の意味を考える手がかりを探す(第 5 節)。このページでは、第1章の目次および第1章の全体像を端的に説明する。

 第1章のゴールは、「人生の意味」とは何のことかを理解し、その問いに対してどのような答えが在り得るのか?を突き止めることである。

 このゴールにたどり着くために、まず「人生の意味」とはそもそも何を意味するのか?という山を越えなければならない(1-1)。なぜなら、「人生の意味」と一言で言っても、調べてみたり、聞いてみたりすると様々に解釈されるからである。そこで、「人生」と「意味」がそれぞれ何を意味するのかを考察・再定義した(1-1-1、1-1-2、1-1-3)。

 次に、定義された「人生の意味」に関する議論はそもそも成立するのか?それが求められるときがあるのか?を考える(1-2)。誰も考える必要がないのであれば、不要な議論である。これについて、問いを起こす対象(1-2-1)と問いが起こりうる状況(1-2-2、1-2-3)を考える。

 議論が成立すると分かれば、次に考える必要があるのは、それを議論する意味はあるのか・ないのかである。当サイトに反感を持つ人が抱くであろう「人生の意味を問うことは有意味なのか?」を、哲学的側面(1-3-1)、現代の環境的側面(1-3-2)、普遍的側面)1-3-3)の3方向から考えた。

 3つの山を乗り越え、定義された「人生の意味」は、どういうものなのかという要件を3つ考えた(1-4-1、1-4-2、1-4-3)。そして、これを満たす意味を抽象から具体で考えたのが第5節(1-5)である。

 こうしてみると、当サイトで言及する「人生の意味」は、結局のところ、当サイトが定義した意味における「人生の意味」でしかないではないか、と思われるかもしれないが、できるだけ全ての人が納得できる定義になるようにしているので、ご一読願いたい。
 

1-1 問いの意味

 人生の意味と表現した時、それが何を意味しているかは様々に理解されうる。まず、本節では本論で扱う「人生の意味」という言葉が何を意味するかについて、分析哲学を中心に明確にする。浦田( 2013)によれば、「分析哲学の流れにおいて、ここ数十年( 特にこの四半世紀)の間に人生の意味の問題は、比較的厳密に検討されるようになってきている。そして、その際、問題となるのが、『人生の意味』という術語が何を意味するのか、とりわけ『意味』という語が、ここで何を意味しているのか、ということである」1。

第 1 項:「意味」は何を意味するか

 浦田(2006)が Nielsen(2000)の言葉を引用しているように、人生の意味とは、「『蒙昧主義者』の意味とは何か」や「『机』の意味とは何か」、「『よい』の意味とは何か」というような語の定義や説明、記述を求めたり、指したりしているわけではない2。我々がここで人生の意味と言っているのは、問いという形で現れる人生の意味である。具体的には、「人間はどこからやって来て、どこへ行くのだろうか」という原因や結果としての問い、「必ず死んでいくのに、何のために(なぜ)生きるのか」という目的に関する問い、そして「人生は生きる価値があるのか(生きるに値するのか)」という価値への問いである3。これらの問いは、言語学的な「意味」を尋ねているのではなく、むしろ存在論的な「意味」を問うている。

 さて、存在論的な「意味」を問うていると述べたが、それはどのようなことか。

 「人生」とは、「人間として生まれ、生き、死ぬまで」のことであり、生まれた瞬間から死ぬ瞬間(心臓が止まる瞬間)までのことである。存在論的な意味と言っているのは、他の生物ではなく、人間に生まれてきた存在の目的、価値、意義のことである。したがって、本論で「人生の意味」と使うときは、「人生の目的」「生きる価値」「存在意義」と同義である。

 次に「人生の意味」という問いについて、村山(2005)を参考に、行為と関連して問い自体の分析をする。人生とは、人間として生まれ、生き、死ぬということであり、そこに「◯◯ が」という主体を考えることができる。この点において、行為と人生は類似している。我々がある行為について「その行為の意味は何か」と問われた場合、それは「その行為を通じて、未来において何が実現されるのか」という未来の目的を問われていると捉えることができる。これを「人生」に適用すると、「人生の意味」とは、「人生を通じて、未来において何が実現されるのか」という問いとなる。この問いでは、人生(生きる)は手段と解釈できる。さらに、この問いは次のように書き換えられると村山は言う。「人生に手段や過程としての意味(価値・重要性)を与える、そのような目的は何か」。これは、人生が手段である以上、手段に対する目的がなければならないが、そのような目的は何かということである。しかもここでいう目的とは、手段-目的の連関が長い系列となったとしても、最終項には、それ自体で価値があるものがなければならず、それ自体は決して何かの「ために」あるのではない、究極的な目的が設定される必要がある。この目的を実現するための手段として、またはこの目的「のために」、人生は意味を与えられるのである4。ゆえに、人生の意味という問いは、目的が設定できたならば問いには答えが与えられたことになり、問い自体は生滅する5。また、究極的な目的は、手段- 目的の連鎖を目的の方に向かい、最終項にある ものをそのように呼んだのであるが、手段の方に遡ると第 1 項は「人生の意味は何か」という問いになると言われる。これは「究極のなぜの問い(the ultimate why-question)」と呼ばれ、ライプニッツ(Leibniz)以来問われてきた問いである6。故にすべてのものごと、行為の根拠に対する問いが「人生の意味(とは何か)」なのである。

第 2 項:「私」にとっての人生の意味

 人生の意味の主語、主体は何であろうか。それは他人ではなく、「私」である。 人生の意味とは、この私が人間としてこの世界に生まれ、生きていくのは何のた めか、ということである。我々が人生の意味を考えるとき、それは決して誰かの 人生に意味・目的・価値があるかどうか( あったかどうか)を考えるわけではな い。例えば、アインシュタイン( Einstein)やマザー・テレサ( Mother Teresa) に人生の意味があったかどうかを問うているわけではない。外部から他人の人 生に意味があるかどうかということは本当の意味では言えないからである。確 かに、アインシュタインやマザー・テレサは、傍から見れば素晴らしい人生であ り、人生に意味はあったと言えるかもしれない。アインシュタインは科学の世界 で多大な貢献をし、マザー・テレサは他人のために人生を全うした。しかし、当 の本人たちが「私の人生に意味はあったのだろうか」と問うこともあり得るので ある。なぜなら、人生の意味の問いとは、森岡( 2015)の言うように「私が自分 自身の人生を生きていくことの真の充実を、その底から支えてくれる足場とな るものが実は不在なのではないかと実感したときに、心の底から叫ばれる問い」であるからである。つまり、外部から社会的な価値の有無を言うことはできても、人生の意味の有無を言うことはできない。その人自身が「それが私の人生の意味 だ」と思っているならば意味がないとは言えないし、「それは私の人生の意味で はない」と思っていればその意味を強要はできないからである7。

 トルストイ(Lev Tolstoy)は外部からは一見、素晴らしい人生を送っていると思われていた一人であったが、その実は人生の意味を激しく求める一人であった。トルストイは日々感じていた疑問を『懺悔』で次のように描写している。 私の著作が私にもたらす名声について考える時には、こう自分に向って反問せざるを得なくなった。≪よろしい、お前は、ゴーゴリや、プーシキンや、シェークスピアや、モリエールや、その他、世界中のあらゆる作家よりも素晴らしい名声を得るかも知れない。- が、それがどうしたというんだ? …… ≫これに対して私は何一つ答え ることができなかった。この疑問は悠々と答えを待ってなどいない。すぐに解答しなければならぬ。答えがなければ、生きて行くことができないのだ。8

レフ・トルストイ

 しかも、こうした状態が彼の身に起ったのは、「いかなる点から考えても全くの幸福と思われるとき」であった。愛し愛される善良な妻、かわいい子供達、莫大な財産、偽る必要のないほどの名声、そして精神的にも肉体的にも同年代では見られないほどの健康であった9。そのような状態にありながら、自らが何のためにと生きるのかという疑問が「何のために?」「で、それから先は?」と形を変えて、頻繁に現れるようになったのである。無益で幼稚と思っていた疑問が、いよいよ鎌首をもたげてトルストイの人生に迫ってきたのである10。この疑問をトルストイはこのように分かりやすく表明している。

 私の疑問- 五十歳の時分に私を自殺させようとしたこの疑問- は、他愛のない小児から思慮分別の十分ついた老人に至るまでの、すべての人の心の中に横たわっている、最も単純な疑問であった。これを欠いては生きて行くことが不可能になる疑問であった。私はそれを実際に経験したのである。その疑問というのはこうだった。≪私が今行っていることや、明日も行うであろうことから、いかなる結果が生ずるのか?-私の一生涯からいかなるものが生まれるのか?≫

 この疑問を別な言葉で表現すればこうなるであろう。≪何故に私は生きるのか、何故に私は何物かを求めるのか、また何事かを行うのか?≫さらにこの疑問はつぎのようにも言い現わせる。≪私の行く手に待ち構えているあの避け難い死によって滅せられない悠久の意義が、私の生活にあるだろうか?≫

レフ・トルストイ

 普通の人が羨ましがるもの全てを揃え、他人から存在価値を認めらていたにも関わらず、トルストイ自身は人生の意味が全く分からず、これがなくては生きていられないと探し求めたのである。

 また、実存主義の先駆けとも言われるキルケゴール( Kierkegaard)は、当時多くの人を魅了していたヘーゲルの体系建てた哲学を批判し、ピーター・ヴィルヘルム・ルンドへの手紙(1835 年 8 月 31 日)にこのようなことを書いている。

The thing is to find a truth which is true for me, to find the idea for which I can live and die.
(私にとって真理であるような真理を発見し、私がそのために生き、そのために死ねるような真理を発見することこそが大事なのである。) 11

キルケゴール

 確かにヘーゲル哲学体系は、歴史、人生、生、死を説明しているが、それは抽象的な人間一般という次元であり、個々の「私」の生き死には全く問題にしていなかったのである。そのような客観的真理をヘーゲルが体系化したとしても、それは差し当たり「私」の主観的な真理にはならない。 また、カミュは『シーシュポスの神話』の中で、

人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと、つまりこの世界は三次元よりなるかとか、精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのは、それ以後の問題だ。そんなものは遊戯であり、まずこの根本問題に答えなければならぬ。12

アルベール・カミュ

と言っている。トルストイ、キルケゴール、カミュにとって、人生の意味は一般的な問題ではなく、「私」の問題として逼迫していたのである。以上から、本論で扱う人生の意味とは一般論ではなく、「私」が人間として生まれ、生きるのは何のためかという主観的な問いである。

第3項:生きる手段と目的の違い

 「私」にとっての生きる意味を考えるとき、注意しなければならないことがある。それは一見、このために生きていると思っているものが、生きるため( 生活するため)にしていることになっているという点である。例えば、「私は成功するた めに生きている」と言う人があるとしよう。成功とは、具体的に言えば、お金を儲ける、結婚する、試験に合格する、などである。しかし、前項のトルストイも 含め、多くの成功者が言うように成功は目的にはならない13。ラッセル(Russell)は『幸福論』に、具体的な成功例を挙げたあと、このように書く。

こうして、かわいそうに、この男は、成功した結果、途方にくれてしまうことになる。成功そのものが人生の目的だと考えられるかぎり、どうしてもこういう事態にならざるをえない。成功したあかつき、成功をどうしたらいいかを教えられていないかぎり、成功の達成が、人を退屈のえじきにするのはさけられないことだ。14

ラッセル

 成功は、あくまで結果であり、本論で扱う人生の意味とは異なることが分かる。人生の意味とは、そのように成功して、どこに向かって生きていくのかということである。同様に、成長が人生の目的とする主張も本論で扱う人生の意味と言えないことが分かる15。

 この違いを岸本英夫は、このように書いている。

人間の問題は、究極的には、二つの根本的な課題に、還元することができるように思う。すなわち、「人間はなんのために生きているか」という課題と、「人間は、どう生きてゆけばよいか」という課題とである。第一の「なんのために」という問題は、人生を、総合的にまとまった一つのものと考え、それ全体としての、目的やゆくえを問うているのである。第二の「どうすれば」のほうは、この世の人間生活のなかにおける、人間の根本的な態度としての、生きてゆきかた、、、、、、、を、聞いているのである。16

岸本英夫

 また、佐藤瑠威は、人間が意識存在であることによって、この二つの課題( 生き方と生きる意味)を不可避的に背負うと述べている17。

 「なんのために生きているか」とは本論で扱う人生の意味を表し、「どう生きてゆけばよいか」というのは、生きる手段・方法であり、生きるためにすることを意味する18。私たちが日々、考え、行動しているのは主に「どう生きるか」についてである。飲食したり、勉強したり、友人と談笑したり、運動したり、睡眠をとったり、と毎日することは、ほとんど生きるためにしていることではないだろうか。お金を稼ぐ、有名になる、家族をつくる、これらはしなくても生きていけるが、よりよく生きるためにしていることには間違いないだろう。世間にあふれかえる How to 本は、まさしくどうすればよりよく生きられるかというために存在する。趣味や生きがいと言われるものも人生に趣や味をだし、生きる甲斐性を出すためにやるのではないか。しかし、「なぜ生きる」とは、それらをやって、生きていくのは何のためかということである。だから、トルストイが悩んだのも当然のことであり、我々は生きるためにしていることを生きる目的とすることはできないのである。それは前述の通り、生きるためにしていることは、手段-目的の連関が無限に遡行するものであるからである19。

 エーリッヒ・フロム(Erich Fromm) は、「have の時代は終わった。これからは be でなければ駄目だ。つまり持つということから、存在する、あるということに価値を置きかえないと駄目だ」と言っている20。どう生きるかとは、まさしく、よりよく生きるために何かを持つ、もしくは do( する) ことである。しかし、どれだけ多くのものを持っても満たされず、苦しみも一向になくならない。世界に目を向けなくても、この豊かな日本だけを見ても同じである。持っていなくても、持っていても苦しむのに変わりはない。なぜなら、それは生き方の問題であるからで、完成のない、死ぬまで考えなければならないことであるからである。大事なことは be、すなわち存在の意味を知ることなのである。何かをしようがしまいが、何かを持っていようが持っていまいが、人生の意味が分かれば、関係なくトルストイのような問いは消え去るのである。

 精神科医のフランクル(Frankl)『生きがい喪失の悩み』の中で、

けれども、実存的真空は生ずるのです。しかも、マスローのいわゆる基本的欲求のなかのどれひとつをも満足させずには残さなかった「ゆたかなる社会」の真ん中で生ずるのです。これは、この社会がまさに諸欲求だけを満足させているが、しかし意味への意志を成就していないことに由来します。「ぼくは二二歳です」と、私にあるとき、アメリカの大学生が書いてきました。「ぼくは学位をもち、ぜいたくな車を所有し、金銭的にも独立しており、またぼくの力に余るほどのセックスや信望も思いのままです。ぼくにわからないのはただ、すべてのものがどのような意味をもつべきかということだけです」と。21

フランクル

 と、生きる手段は持っているが、生きる意味が分からない実存的真空( 実存的空虚)22について述べている。今や物が足りない「不足の時代」ではなく、物が溢れているのに何かが足りない「未足の時代」なのである23。アインシュタインが「手段は完全になったというのに、肝心の目的がよくわからなくなったというのが、この時代の特徴」であると言った24のは、まさにこのことである。生きる手段に不自由なく、栄養失調になることもなく、寿命も延び、医療技術の進歩により大方の病気は治ってしまう。しかし、そうやって健康になった体、延びた命で何をするのかがはっきりとしていないのである。それが人生の意味であり、人生の目的、なぜ生きるの答えなのである。

 ここで、「何のために生きるかを考えることだけが大事だ」といっているわけではない。岸本が前述の後に、「何のために生きるか」と「どう生きてゆくか」は、あい関連し、ともに重要なものである25と言っているように、決してどちらか片方に重要性があるのではない。「どう生きてゆくか」だけしか考えていないかどうかを問題にしているのである。もし、手段についてしか考えていないとすれば、パスカルの言うとおり誠に嘆かわしい限りである26。

 本節では、本論で扱う人生の意味の定義をした。本論で扱う人生の意味とは次のようなものである。

人生の意味=私が人間に生まれ、生きていく究極の目的は何か

 以下では、この定義を踏まえて、論を進めていく。次節では、一体どのような場合に問いが発生するのかについて論じる。

1-2 問いの発生過程

 1-1で本論で扱う「人生の意味」の定義を定めたが、そもそもこれを我々人間が問うことがなければ、考える必要はない。本節では、まず「人生の意味」とはどういう問いなのか(1-2-1)に始まり、その問いがどういう時に起こり得るのか(1-2-2、1-2-3)を考える。

第 1 項:「問う」行為について

 「人生の意味は何か」は、一種の問いである。もちろん、他の問いの内容とは一線を画するが、問いの構造は同じである。すなわち、私たちが問うということは、「なぜ」「何のために」と理由・意味を聞くことである。松井は、意味を問うことが他の一般動物とは異なる人間の本質であると主張する27。意味を問う中でも、存在への問いは他種には決して生まれないだろう。イーグルトン( Eagleton)は、ハイデガー( Heidegger)の言葉を借りて、他の動物とは異なり、「人間は単に存在することにその特徴があるのではなく、そのような存在が問題となる」ところに特徴がある。他の動物が心を悩ませるのは捕食動物から逃れることや子育てであろうが、人間は自らの状況に対峙し、「存在論的不安」に頭を悩ませるのであると述べている28。パスカルが「人間は考える葦である」といい、「われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある」と言った29のは、単に考えることにではなく、存在について考えることについて言ったのではないだろうか30。問うという行為、中でも存在について問う、これが我々人間と他の動物との決定的な相違点なのである。

 シェイクスピア(Shakespeare)は『ハムレット』で「食って寝るだけに生涯のほとんどをついやすとしたら人間とはなんだ? 畜生と変わりがないではないか。」と言わせている31。「食って寝るだけ」とは、文字通りの意味ではなく、前節の言葉を借りれば「どうやって生きていくか」という生きる手段のことであろう。確かに生きるための手段ならば、高い知能を持つ動物であれば考えている可能性はあるだろう。だからそれだけに人生をかけているならば、それは畜生と変わりはない。

 問うという行為、中でも存在への問いは人間特有のものだと分かった。では、この存在に関する問いはどのようにして発せられるのであろうか。以下、二つの場合に分けて、問いが発生する過程を考える32。これはそのまま、この議論の対象者を意味する。

第 2 項:逆境における問いの発生

 我々が逆境(苦しい時や辛い時)に立たされた場合、しかもそれが極めて重大な場合、人生の意味を問うことがあると考えられる。我々は何か未来に目的を持って生きているが、その目指している目的が困難により達成不可能となったとき、「一体、私は今まで何のために生きてきたのだろうか」「こんなに苦しいのになぜ生きていなければならないのか」と問うのである。それは、それまでその目的によって人生が意味づけられてきたため、目前の目的が達成されないことにより、過去の一連の行為の意味を持たないように感じてしまうからである33。

 分かりやすい例として、フランクルが強制収容所での体験を心理学的に分析した『夜と霧』の内容から考えてみる。フランクルによれば、被収容者には二タイプの人間がいた。すなわち、苦しさに耐えきれなくなって自殺を図った人と、苦しさに耐えて解放まで生き延びた人である。この違いをフランクルは自分の生きる意味を見出していたかどうかで分けている。家族を失い、一向に解放の希望がない中で、頑張り抜く意味を見失った人は励ましも慰みも拒み、「生きていることにもうなんにも期待がもてない」と言葉にし、崩れていった。自分の家族がまだ待っている、自分の研究はまだ終わっていないと、未来に希望を持っていた人は、いかなる苦しみも耐え抜いたと言う。耐え抜いた人たちの中でも、解放後に自らの家がなくなり、家族もいないことを知った途端に絶望の淵に立たされた人もいる34。 このように自分が目的としていたものが逆境によって、達成が不可能になると我々は人生の意味を問わずにはいられなくなる。故に、どんな逆境によっても崩れない目的である必要があるだろう。このことについては第 4 節で詳述する。

第 3 項:順境における問いの発生

 逆境において人生の意味の問いが発生するのは想像しやすいが、順境の時に も発生する可能性が考えられる。例えば、人生が上手くいっているにも関わらず、

 「この人生に何の意味があるのだろうか」と問う可能性があることは考えられる。そのような問いは進行形で上手くいっている時よりも、当面の目標が達成された時に発生すると思われる。ノーベル文学賞を授与され、英語圏の国々で多大な功績を残した才人であるバーナード・ショー( Bernard Shaw)が、“ There are two tragedies in life. One is not to get your heart’ s desire. The other is to get it.” と言っているように、我々は夢を叶えた時でさえも悲劇になりうる35。どうしてそのようになってしまうのだろうか。

 逆境の場合は、それまで意味を与えていた目的( ここで使っている目的とは最終項ではなく、通過点という意味での目的であり、目標と同義)の喪失により、それまでの人生が無意味に思われるのであった。それに対して、目的を達成した場合は、それまでの一連の行動の意味が確定する。目的達成は同時に目的の喪失にもなり、その時、このような問いが浮上してくる。「私はこれまでうまくやってきた。これから何を目指せばいいのだろう。そもそも私は最終的に何を目指しているのだろう。」という問いである。この場合は、逆境と異なり、未来の行為の意味付けが不明なため、人生全体の意味に関する問いが喚起される36。

 先述したトルストイも順境において人生の意味の問いを考えた一人であったが、功利主義で有名なミル( Mill)もそうであった。ミルはそのことを「精神の一大危機」と題し、『ミル自伝』の中に書き記している。 幼少期から父の熱心な英才教育を受けたミルは、教養はもちろん、考える力を身につけ、「同世代に二十年ほども先んじて」いるくらいの知識を修得していた。 1821 年、ミル 14 歳の冬、初めてベンサムを読み、それ以来、「生涯の目的と言えるものとして、世界の改革者になるという大志を抱くようになった」。これは、ミルにとって「永遠に価値のあるもの」であり、「本当の生き甲斐」であったのだが、1826 年 20 歳になった彼は突然、「ぼんやりと無感覚な状態に陥って」しまう。喜びにも刺激にも反応せず、楽しいという感覚のないそんな時にふと「生涯の目的がすべて実現したら、今めざしている制度や思想の改革が今この瞬間にあますところなく実現したら、おまえは本当にうれしいのか。本当に幸福なのか」という声なき声が聞こえてくる。それに対し、「私の中の私は、抗いがたい率直さで『否』と答えた」という。今までの世界の改革者になるという目的を追求するために生きてきたミルは、その拠り所が崩れ落ち、「もう生きるに値するものは何もない」と思うにまで至った。当時の心境をコールリッジの詩を引用して書き表している。

虚ろで暗くおぞましく、疼きも覚えぬこの苦しみ、
精気を奪い、息を詰まらせ、感情すら失わせるこの悲しみ、
言葉に、溜息に、涙に逃れたい
だが願いはむなしく、憂いは晴れない

J.S.ミル

 そんな憂鬱な状態に居ても立ってもいられず、愛読書や過去の賢人・偉人が残した書物を手当たり次第に読み漁った。しかし、努力虚しく、いつもは元気づけてくれるこれらの書物も「あのときは沈黙していた」という。37

 トルストイもミルも順風満帆な人生を歩んでいたはずなのに、ふと人生について思いを馳せた途端に、人生の意味の問いに悩まされたのである。これは決して挫折したからではない。いかに人生が順境で、何事もなく上手くいっていたとしても、このように人生の意味に悩まされることはあるのである。

 本節では、「何のために生きるのか」という存在の問いは、人生のいかなる場合にも問われる可能性があることが分かった。では、その問いはどれくらい重要なものなのか、また実際に問われているのかを次節で考える。

1-3 人生の意味を問うことは有意味か

 本節では、哲学的な側面、現代的な側面、普遍的な側面の三側面から如何に人生の意味を本論で扱うことに意味があるのかを考える38。

第 1 項:哲学的な問いとして

 古来、哲学の永遠のテーマは「生きるとは何か」、「生きる意味とは何か」であ った。ソクラテス( Socrates)、アリストテレス( Aristotle)から始まり、現代 では、実存哲学者と言われるキェルケゴール、ヤスパース( Jaspers)、ハイデッ ガー( Heidegger)、サルトル( Sartre)、は私たちの存在について哲学的に分析 している。また、文学の世界では、ドストエフスキー( Dostoevsky)、カミュ( Camus)は文学作品を通して、この悩ましい人生の意味について私たちに問いかけてい る。精神科医、心理学者の分野ではフランクルが実存の意味を研究している。なぜ、それほどまでに取り憑かれるテーマなのか。それはトルストイのこの言葉に凝縮されているだろう。

 この疑問は実に愚劣な、単純な、子供臭いものに思われていたのだが、いざ取り上げて、解決しようという段になると、たちまち私は、まず第一に、それが子供じみた愚かしい疑問でなどないどころか、人生における最も重大にして深刻な問題である39

 この重大な問題は、西洋だけでなく、東洋でも古くから重要視されていた。その一つとして有名なのは釈迦の出城入山の話である。
 釈迦は子供の頃、シッダルタ太子と呼ばれ、王家に生まれ、何不自由なく暮らせる環境で育った。類まれなる学才と秀でた武芸の才能も持ち、文武において比肩する者はいなかった。しかし、何においても恵まれていた太子は、過保護な親のせいか、病人や死者を見たことがなかった。あるときは、カピラ城の東門から外に出て、初めて老人を見て、老いる苦しみを知る。あるときは、南門から出て、病人を見て、驚き、病の苦しみを知る。そしてあるときは、西門から出て、死人を目撃し、驚歎して、死ぬ苦しみを学ぶ。最後は北門から出て、出家した修行僧を見て、感動した。これが釈迦の四門出遊である。この出来事以降、太子は時折、何か物憂げな表情をし、それを心配した父王はインド一の美女ヤショダラを妻として娶り、さらには多くの美女を住まわせた四季の御殿まで造ってしまう。しかし、釈迦の悩みは物質的なものではなく、精神的なものであった。ある晩、城で寝ようとした時に、昼間は華麗な美女が、目の前で醜い姿を晒して寝ているのを見て、太子は城を出た。王は出家しようとする太子を引き留めようと望むものを聞くが、太子は三つの苦しみ( 老苦、病苦、死苦)をなくすことが望みという。しかし、老苦、病苦、死苦をどうしてなくすことができようか。すべてを動かす権力を持ち、何でも揃えることができる金を持っていたとしても、これだけはどうしようもなかった。なぜこれだけの苦しみがあるのに生きなければならないのか、太子の疑問は誤魔化すことができず、ついに出家修行の身となった。

 以上が釈迦出家の顛末である。苦が満ち溢れている人生を何のために生きるのかが仏教の原点であったのである。 古今東西、哲学の大きな関心は人生の意味であったことが以上より分かるであろう。しかも、それは一般的な問題というより、個人の心の奥底から出てくる問いなのである。

第 2 項:現代的な問いとして

 人生の意味に悩む人は決して哲学者だけではない。言葉や表現は違えども、人生の意味は考えられているのではないだろうか。「人生は苦なり」の釈迦の言葉に例外なく、予期せぬ天災、人災に悲鳴をあげ、苦しみ悩む人は多い。豊かさが幸福につながると信じて、戦後の日本は進歩、発展してきた。GDP の推移を見れば、いかに努力してきたかが分かるであろう。日本に限らず、世界中のすべての国・人は豊かさを求めて努力していることに疑いはない。
 しかし、この豊かさは幸福につながり、苦悩は減っただろうか。科学・医学は日進月歩で、宇宙開発や遺伝子解析、スマートフォン、3D 映像、一昔前には夢と思われていたことが数年で実現してしまう世界となった。そんな世界において、自殺者が無くなったという報告もなければ、人生は苦しくないと言い切る人すらもない。どれだけ金を持っている人であっても、どれだけ豊かな生活をしている人であっても、苦しんでいることに変わりがない。この不足の時代が終わった今になって、我々は豊かさと幸福がつながらず、豊かになるために生きているのではないということが分かってきたのである。

 モノが溢れかえっているこの時代で、増えてきていると言われているのが実存的空虚に悩む人々である。実存的空虚とは、フランクルの言葉で、人間の実存に悩み、心が空虚感で満たされる人々が増えてきているというのである。

私たちは今日ではもはや、フロイトの時代におけるように性的な欲求不満と対決しているわけではなくて、実存的な欲求不満と対決しています。また今日の典型的な患者は、もはやアドラーの時代におけるように劣等感にさほど悩んでいるわけではなく、底知れない無意味感に悩んでおり、そしてこれは空虚感と結び合わされているので、私は実存的真空と呼んでいるのであります。40

フランクル

 具体的に言うと、何をやっても満たされない、何だか虚しい、何かが足りないわけではないけど「何か」が足りない、不幸ではないがとりわけ幸福というわけでもない、といった悩みである。諸富は、次のように、このことをうまく言い表している。

 今、「どこまでも、透明な絶望」とでもいうべきものにとらわれていることにあるように私には思える。
 それは、今は暗黒の闇の中にいるけれども、そこから脱出できれば明るい未来が見えてくる、といった類の絶望ではない。
 人生の深い、谷間に沈んでいる。そのような絶望ではない。それはむしろ、どこまでいっても同じことがくり返されていくだけの、透明な絶望。深い闇ではないが、どこまでもまっ平らな未来の、先の先まで透けて見えていて、そこから抜け出すことなど永遠に不可能に思える、そんな絶望。
 ただ今と同じ日常だけがどこまでもくり返されていく。そんな現代日本社会は、言うまでもなく、ナチスの強制収容所に比べればとんでもないほど豊かで、平和な社会である。41

諸富祥彦

 これは『完全自殺マニュアル』で述べられている自殺の要因に共通している。

あなたの人生はたぶん、地元の小・中学校に行って、塾に通いつつ受験勉強をしてそれなりの高校や大学に入って、4 年間ブラブラ遊んだあとどこかの会社に入社して、男なら 20 代後半で結婚して翌年に子供をつくって、何回か異動や昇進をしてせいぜい部長クラスまで出世して、60 歳で定年退職して、その後 10 年か 20 年趣味を生かした生活を送って、死ぬ。どうせこの程度のものだ。42

『完全自殺マニュアル』より

 自分の人生が他人と同じような人生に見え、「ひとりひとりが無力で、いてもいなくてもどうでもいい存在」に思われる。そして、変わり映えのしない毎日が 「延々と同じように続いていく」と感じる。あまりに未来が透明であるがゆえに、そこに何の意味があるのか分からなくなる。これをフランクルは実存的空虚と 呼んだのである。日本では諸富の調査により、このような空虚感を持つ人が現代に多いということが分かっている43。

 人生の意味とは、「そのような人生」の意味であるから、これさえ分かれば実存的空虚は霧散するであろう。したがって、人生の意味を本論で探求することは現代人にとって大きな価値があると考えられるのである。

第 3 項:普遍的な問いとして

 人生の意味は、考えたことがある人だけでなく、考えたことがない人にとっても大事な問いであり、現代だけでなく、どの時代においても大切な問いである。すなわち、人生の意味は老若男女、貴賤を問わず、すべての人にとって知っておくべきことであると考えられる。どれだけ自分と人生の意味を考えることとは関係がないと思っている人であっても、前節で述べた通り、将来考える時が来るかもしれないからである。順境の時でも問いが発生する可能性がある以上、どのような人でも問いが発生する可能性はあるのである。また、人生の意味を考えるということは、自分の未来の目的を考えるということであるから、積極的に肯定されることはあっても、否定されることはないように思われる。

 このような意味で、人生の意味は一個人の問題であると同時に、普遍的な問題でもある。 本節で、人生の意味を考えることは学問的にも、社会的にも価値があり、それはどのような人にとっても知っておいて損はないということが分かった。

1-4 人生の意味の必要条件

 本節では、どういうものであれば、「私が人間に生まれ、生きていく究極の目的は何か」という定義の人生の意味であると言えるのか考える。人生の意味に関する書物、先行研究を元に、大きく三つの角度から必要条件について論じる。

第 1 項:主観的かつ客観的納得

 人生の意味と言えるものの必要条件の第一として、「主観的かつ客観的に納得できる」ということをあげたい。主観的な納得とは、自分自身が「これが人生の意味だ」と納得でき、しかもそれが揺らがないということである。客観的な納得とは、客観的に見て「それが人生の意味だ」と納得できるようなものということである。この二つの視点を端的に言えば、主観的な自己の視点とは、感情であり、客観的な自己の視点とは、論理であり哲学的思考である。

 分析哲学において、人生の意味に関する哲学的議論をまとめたメッツ( Metz)は、人生の意味を考える立場として、「超自然主義」、「主観主義」、「客観主義」の 3 つに分類している44。「超自然主義」とは、人生の意味をスピリチュアルな領域と関連させる立場である。本論では、この立場は取らないので詳細は省く。次に、「主観主義」とは、人生を意味あるものにするのは主観であるという立場である。メッツは主観主義の最大の問題点として、「本人がそれに満足していたらたとえどんな内容の人生であったとしても意味があることになる」という点を見ている45。すなわち、主観主義の立場をとるならば、例えばヒトラー(Hitler)やスターリン(Stalin)の人生は肯定される可能性がある。彼らは数え切れないほどの命を奪い、人を支配していた。それが彼らにとっての使命であり、それを人生の意味として考えていたのであろう。とするならば、主観的にはその人生で満足しているため、他人がどうこう言おうが関係なく、ヒトラーやスターリンの人生には大きな意味があったのである。

 しかし、これは感情的に納得できない。したがって、メッツは、「他人に害を与えるだけの人生や、ただ生きているだけの人生にたいした意味はないだろう」と言い、人生の意味は他人や社会に善をもたらすようなものに客観的に決まるであろうと言うのである46。そして、メッツはマンデラ(Mandela)やマザー・テレサは善という点で、ダーウィン(Darwin)、アインシュタインは基盤的真実を発見した点で、ドストエフスキー、ピカソ(Picasso)は美という点で、客観的に有意味であると主張する47。

 確かにメッツは一見正しいことを言っているように見えるが、森岡の言うように「人生の意味」が意味する内容を捉え損ねている48。つまり、どれだけ客観的に見て、人生の意味があるように思えたとしても、「人生の意味」が私の人生の意味である限り、当の本人がそれを人生の意味と感じなければ、その人にとっての人生の意味にはならないのではないだろうか。これは第 1 章の第 2 項で述べた通り、外から社会的な価値の有無は言えるが、人生の意味の有無は言えないということである。もし客観主義の立場にたったならば、この世には人生に意味がある人とない人が存在し、社会的に価値がない人は人生の意味がないというような暴論に発展する恐れがある。

 主観主義の立場にたっても、客観主義の立場にたっても、上手くいかないのはなぜか。それは主観と客観を分離しているからである。本来、主観・客観の二つの視点は我々にどちらも備わっている視点である。例えば、ネーゲル(Negel)が例を挙げるように、「はるか外側からみれば、自分の誕生は偶然で、人生は無意味で、自分の死はとるに足らないように思える」一方で、「内側からみれば、自分が生まれなかったなんて想像することすら不可能に近いし、自分の人生はとてつもなく重要で、その死は悲劇的に思える」のである。我々は内部の観点(主観)からも外部の観点( 客観)からもどちらからも逃れることはできない。しかもこの二つの観点のどちらかに一貫した態度をとって人生の意味や目的を考えることはできないのである49。

 第 2 節や第 3 節で述べたように、我々が人生の逆境に遭遇したとき、我々は 人生の意味について深刻に考えることがある。しかし、これは感情的なもので一 過性のものと考えられる場合もあり、事態が変化することで考えなくなること もあるだろう。一方、哲学的な問題としての人生の意味は、客観的に乖離するこ とから起こるため、「主観的に完璧であっても客観的な無意味さで人生を脅かし、真剣に生きていたとしても、不条理によって脅かしてくる50」ものである。主観 的な視点は、哲学的に人生の意味が問われた時、「整合性を保ちつつ内側から正 当化することはできない」だけでなく、正当化を見つけることすらできない。故 に、我々が人生の意味を考えるときに主観的な視点からだけ満足できるもので は不足となる。逆に、客観的な視点からだけ満足できる場合は、「私」という主 体が忘れ去られている場合がある。人生の意味とはそもそも「私」の人生の意味 であるから、主体を欠いては本末転倒である。 したがって、主観と客観、双方の納得が人生の意味といえる為の第一必要条件として挙げられる。カミュの言葉を借りれば、「本質的な問題」(ときにひとを死なしめるかもしれぬ問題、あるいは生きる情熱を十倍にする問題51)に答える思考法は、「ラ・パリス的な思考方法」(自明性)と「ドン・キホーテ的な思考方法」(叙情的態度)しかなく、この二つの均衡によってのみ、我々は「感動と明晰に同時に到ることができる」のである52。

第 2 項:誕生肯定

 人生の意味の必要条件の第二として考えたいのは、それによって人生を後悔しないものにし、生まれてきたことを肯定できるという条件である。これについて、森岡正博の「悔いなく生き切る」ための生命学を元に考える53。森岡によれば、「悔いなく生き切る」とは三つの側面からとらえられる。

 まず、生まれてきたこと自体を肯定できるという側面である。もし、「生まれてこなければよかった」という考えになってしまえば、それは生まれてきたことへの後悔であり、しいては人生を否定・後悔することである54。したがって、誕生を肯定できなければならない。

①悔いなく生き切るとは、「生まれてきて本当によかった」といまここで深く心から肯定することである。

 この「生まれてきて本当によかった」というのは「生きていてよかった」という言葉とは似て非なるものである。「生きていてよかった」とは、裏に隠れているのは「今まで死なないでよかった」という意味である。しかし、「生まれてきて本当によかった」とは、「この世に生をうけたことそれ自体が、本当によかった」という誕生を肯定することなのである。 「生まれてきてよかった」という誕生を肯定できると同時に、今まで生きてきた人生そのものを肯定できなければ、悔いが出てきてしまう。すなわち、その時々は、悔いのある人生なのであるが、死に面したときに、その悔いのあった瞬間も含めた人生を丸ごと肯定できるのが「悔いなく生き切る」ということである。

②悔いなく生き切るとは、私が死に面したときに、「これまでの人生には様々な後悔があり失敗があったのだけれども、限られた人生を自分がこのように生きてきたということ全体についてはこれでよかった」と深く心から自己肯定できるようになることを目指して、私がいまここの生を生き尽くすことである。

 さらに、悔いがないのはまさにこの人生であるから、「別の人生のほうがよかった」という考え方にはならない。つまり、「もっとこのようにしたかった」という欲望やその側面から、「こんな人生は嫌だ」という絶望のないことが「悔いなく生き切る」ということである。

③悔いなく生き切るとは、私が死に面したときに、「これ以上生き続けてもいいし、もうこれ以上生き続けなくてもよい」と、心の底から思えるようになることを目指して、私がいまここの生を生き尽くすことである。

 森岡はこの三側面から「悔いなく生き切る」ことを定義している55。この「悔いなく生き切る」ことはキルケゴールの「私がそのために生き死にできる」と言ったことに近いと思われる。そのことを踏まえて、まとめると、人生の意味とは、

 「私が生まれてきたのはそのためであり、そのために今まで生きてきた」と言えるものであり、それを実現できたならば56「本当に生まれてきてよかった。このために生まれてきて、今まで生きてきた。これから生きていても満足だし、いつ死んだとしても後悔することはない」と言えるものである必要がある。

第 3 項:絶対的意味

 第三番目の必要条件は、絶対的な意味である。仮に、相対的なものであるとすれば、意味がなくなってしまう場合があるということになってしまうからである。人生の意味は、どんなことがあっても、どのような状況でも決して揺るがない、絶対的な意味であるべきではないかどうかを考えてみる。

 人生の意味が絶対的であるならば、第 2 項の誕生肯定も絶対的な肯定になる。そこで、人生が絶対的な肯定されない場合を考えてみると、人生が相対的には良いにも悪いにもなる、もしくは人生が絶対的に否定されるという場合が考えられる。また、誕生肯定が絶対的なものであれば、その人生の意味においては、自殺は完全否定される57。反対に、誕生肯定が相対的なものであるとすれば、自殺は肯定されうる。自殺が肯定されうる場合について、さらに分析してみると、

A.死が最善の状態である。(Being dead is the best state possible.)
B.生が最悪の状態である。(Being alive is the worst state possible.)
C.死が生よりも善い状態である。(Being dead is better than being alive.)
 C1.死が常に生よりも善い状態である。(Being dead is always better than being alive.)
 C2.死が時として生よりも善い状態である。(Being dead is sometimes but not always better than being alive.) 58

という場合が考えられる。人生はこの 4 つの場合と「生が最善の状態である」、すなわち、生は絶対的な意味を持つという計 5 つの場合しか考えられない。これ は、相対的な次元で生の方がいいという理由は自殺を止める理由にはなり得ず、むしろ自殺を合理的にしてしまうということを示している。すなわち、絶対的な理由がなければ、死を選ぶことは悪くないということになってしまうのである。逆に言えば、人生の意味が絶対的なものであれば、それは生を絶対的なものにし、自殺が合理的に完全に否定されるということである。我々が生きる理由を探求し、死んでもいい理由を否定する以上、人生は絶対的な意味を持たなければならなくなる。

 絶対的とは、また、完成ということでもある。完成とは、もうこれ以上変化しない、不変のものということである。変化してしまえば、その前後で比較でき、それは相対的なものとなってしまう。故に、変化があるならば相対的なものであり、絶対的なものならば不変であり、完成したものである。

 以上の三つの人生の意味の必要条件をまとめると、

  1. 主観的かつ客観的に納得できる
  2. 誕生肯定される
  3. 絶対的な意味を持つ

 この三つの条件が「これが人生の意味である」というための最低必要な条件とした上で、本論では人生の意味について考えていく。

1-5 幸福論

 人生の意味は、漠然とした言葉で、幸福になることであると言われる。

すべての人は、幸福になることをさがし求めている。それには例外がない。どんな異なった方法を用いようと、みなこの目的に向かっている。( 中略) これこそすべての人間のすべての行動の動機である。首を吊ろうとする人たちまで含めて59。

パスカル

ひとが意識に目ざめた最初の時から意識が消えるまで、最も熱心に求めてやまないものは、何といってもやはり幸福の感情である60。

ヒルティ

 しかも、その幸せとは他の誰でもなく自分自身の幸せである。

まず初めに人の思い浮べる人生の唯一の目的は自分一個の幸福である61。

トルストイ

 しかし、実際に「私は幸福である」と言える人はどれだけあるだろうか。アランは『幸福論』の中に、不幸になることよりもむずかしいのは、幸福になることであると言っているが62、世の中は歓喜の声ではなく、愁嘆の声に満ちている。ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)はソロン( Solon)の有名な言葉を引用し、このように言う。

「生きている間は、誰も幸福だとは言えない」という言葉の本当の意味は、「誰も幸福ではない。太陽が照らしているすべての生命に限りあるものどもは、悲惨な状況にある」ということなのである。63

ハンナ・アーレント

 また、ショーペンハウアー(Schopenhauer)も断言する。

早い話が、幸福な人間は誰もいない。ただ誰もが自分の思いこんだ幸福を目指して生涯努力し続けるのであるが、それに到達することは稀である。よしまた到達するとしても、味わうのは幻滅だけである。64

ショーペンハウアー

 バーナード・ショーの言う二つの悲劇を、ショーペンハウアーもまた感じ取っていたのであろうか。我々が幸福になるのはそれほど簡単ではないようである。セネカ(Seneca) もその事実を見抜き、

幸福な生を送りたいというのは人間誰しもが抱く願望だが、幸福な生をもたらしてくれるものが何かを見極めることとなると、皆、暗中模索というのが実情だ。それに、そもそも幸福な生を達成するというのは実に容易ならざる業なのであって、いったん道を誤れば、慌てて急げば急ぐほど、目指す幸福な生から遠ざかる結果を招いてしまうといったものなのだ。たどるその道が幸福な生とは逆方向に向かう道なら、急く速度そのものがますます大きな隔たりをもたらす因となるからである。それゆえ、われわれはまず自分の求めるものが何かを措定しなければならない。次には、周囲をよく見渡し、どの道をたどれば目的地に最も早く到達できるかを見て取らねばならない。65

セネカ

と忠告している。したがって、次に我々が考えなければならないのは、「その幸福がどのようなものであり、何がそれをもたらしてくれるのか」ということである。セネカの言う通り、間違った道を信じていては、どれだけ頑張っても幸せにはなれるはずがない。だが、何が間違いで、何が正しいかを見極めるのは困難を要する。なぜなら、この人生においては、「最もよく踏みならされ、最も往来の激しい道こそ、最も人を欺く道なのである66」。ゆえに大事なことは人と同じであることではなく、「理性を判断基準にする」ことである67。

 さて、問題となる幸福には、どのような性質のものが考えられるか。我々が理性で考えられる幸福は次の二つに分けられるであろう。すなわち、自分の欲望を満たす、いわゆる快楽主義的な幸福68(これを一次的幸福と呼ぼう)と欲望を抑え、倫理的に行動することで得る禁欲主義的な幸福(これを二次的幸福と呼ぼう)である69。 一次的幸福は、我々が幸福と想像した時に真っ先に思いつくものである。美味しいものを食べる、お金を儲ける、他人に褒められる、好きな人と一緒に過ごす、好きな時間寝る、知識を得る、など自分が求める快楽によって得られる動物的な幸福である。ここには趣味や生きがいと言われるものも入るだろう。我々が手っ取り早く幸せを感じたければ、自分の欲求を満たせばよいのである。しかし、恐らく一次的幸福では死ぬまで満足するということがない。なぜなら、無限の欲望を有限の人生、有限の資源で満たすことは不可能だからである70。デュルケーム(Durkheim)の言葉を借りれば、まさに「無限という病」なのである71。また、快楽主義的幸福の本質をラッセルはこう言う。

道楽や趣味は、多くの場合、もしかしたら大半の場合、根本的な幸福の源ではなくて、現実からの逃避になっている。つまり、直視するには大きすぎる苦痛をさしあたり忘れるための手段になっている。72

ラッセル

 また、パスカルも「気を紛らすこと73」であると言っている。欲望を満たすことによって得られる幸せに重きを置くような存在をキルケゴールは審美的実存と呼んだ74。審美的実存とは、「あれもこれも」と快楽を追求するのだが、ラッセルの言うように現実から離れてしまうため、自分を見失い虚無感に陥る。

 審美的実存に絶望した人が次に求めるのが倫理的な行動によって得られる二次的幸福である。道徳的・倫理的行動とは、一言で言ってしまえば、(他人のために)善をするということである75。倫理的行動に幸せを求めるような存在をキルケゴールは倫理的実存と呼ぶ。倫理的実存とは、美的実存とは異なり、「あれかこれか」と選択することによって自己実現をし、幸福を得る。しかし、厳しく正義を追求すればするほど、理想と現実のギャップに苦しみ、絶望に陥る。 美的実存にも倫理的実存にも絶望した人が次に求めるのが宗教的実存だとして、キルケゴールは神を持ち出した。それは、カミュの言うように、「唯一の真の突破口は、まさしく、人間の判断するかぎり突破口など存在しない76」と考えたからであろう。しかし、我々は出来る限り理性に従い、神のような存在を持ち出すことは極力避けたい。なぜなら、我々が神へと向かうということは、それを不可能事だと判断したことと同じだからである。

 そこで一次的幸福、二次的幸福を再度考えてみると、この両者は相対的な幸福である。すなわち、他( もしくは自己)と比べることによって初めて感じることができる幸せである77。相対的な幸せは第 4 節の条件に合わないため、人生の意味とは言えない。それとは反対に、絶対的な幸福なるものがあれば、それは人生の意味と言えるのではないだろうか。これをアリストテレスは自足的な幸福と言う。自足的な幸福とは、他に依らず、それ自体で価値がある幸福のことである。ハンナ・アーレントは、アリストテレスの幸福論について、『人間の条件』の中にこのように書いている。

幸福(eudaimonia) というのは、
束の間の気分にすぎない幸せ( happiness)とも、
生涯の一定の期間には摑むことができても他の期間には失ってしまう幸運(good fortune)とも異なり、
生そのものと同じように、存在の永続的状態のことであって、変化を受けつけることもなければ、変化をもたらすこともありえないものである。78

ハンナ・アーレント

 ハンナ・アーレントのいう happiness や good fortune とは、先の一次的幸福、二次的幸福と言えるだろう。eudaimonia と言われる幸福とは明確に区別されなければならないものである。ヒルティの言葉を借りれば、前者は「不完全なもの」であり、後者は「完全なもの」である79。絶対的な幸福は、言い換えれば自足的な幸福であり、完全な幸福なのである。 ここで、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で eudaimonia をどのように定義しているのかを見ておく。eudaimonia とは「それだけで人生を選び取るに値するものにし、まったく欠けたところのないものにするもの」であり、「他のものと一緒に数え入れることのできないもの」である。すなわち、eudaimonia は絶対的唯一の幸福であり、それ以上何かのために求められるものではない、完全な幸福のことである80。

 一次的な幸福や二次的な幸福は、それ自体のために選択されると同時に、 eudaimonia のためにも選択される。なぜなら、「私たちはそれらによって( 完全な)幸福になれると判断する」からである。つまり、一次的な幸福や二次的な幸福を求めるとき、我々はそれらが eudaimonia(完全な幸福)であると信じて求めるのであるが、実際にはそれらは eudaimonia と言われるものではないし、 eudaimonia にはなり得ない。これがアリストテレスの定義する eudaimonia である81。

 この絶対的な幸福とは、具体的にどのような幸福なのであろうか。絶対的なものであるということをさらに詳しく言えば、どのような状況でも揺らぐことの ない、崩れないということであった。我々が考えうる最悪の状況とは死であろう。ということは、死を目の前にしても揺らぐことのない幸福があれば、それが絶対 的な幸福と言えるのではないか。

しかし、本当の幸福とは、いったい、何でありましょうか。人間の幸福は、複雑なものであります。いろいろの要素があって、それがいっしょになって、からみ合って、幸福がつくり出されております。しかし、人間が、ふつうに、幸福と考えているものは、傷つきやすい、みかけの幸福である場合が、多いようであります。それが本当に力強い幸福であるかどうかは、それを、死に直面した場合にたたせてみると、はっきりいたします。82

岸本英夫

 岸本の言うように、それが本当の幸福かどうか分かるのは、死に直面した場合だとするならば、我々が次に考えなければならないのは、死についてであろう。次章は、死を手がかりに人生の意味について考える。

脚注・出典

  1. 浦田悠、2013、『人生の意味の心理学 実存的な問いを生むこころ』、京都大学学術出版会、p.24
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  2. 浦田悠、2006、「人生の意味についての理論的概観」、『教育方法の探求』、( 出版社要確認)、p.41
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  3. 浦田( 2013) は、「意味」という語の意味について、分析哲学者の Hospers の 8 つ分類( 指示、原因、結果、意図、説明、目的、含意、意義) や Nozick の 5 つの分類( 外的な因果関係、外的な指示的・語義的関係、意図や目的、レッスン、個人意義・重要性・価値・問題) を取り上げている。[浦田( 2013)、p.25]
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  4. 村山達也、2005、「人生の意味について- 問いの分析の観点から- 」、『哲学』第 113号、p.73
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  5. 同上、p.77
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  6. 菅沼聡、2004、「究極の問いの再考」、『哲学』、第 55 号、pp.179-182
    この究極の問いは「なぜ、無ではなく、何かが存在するのか」という問いとしてもよく考えられるが、証明はされていない。本論では、「なぜ、存在するのか」ではなく、「何のために存在するのか」という問いである。前者は存在自体を問い、本論は存在する価値・理由を問うている。なぜ無ではなく、有なのかについては、主に扱うわけではないが第 3 章で言及する。
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  7. 森岡正博、2015、「人生の意味」は客観的か: T・メッツの所説をめぐって 生命の哲学の構築に向けて(7)、『現代生命哲学研究』4、出版社、pp.87-90
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  8. トルストイ、1961、原久一郎訳、『懴悔』、岩波文庫、p.26
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  9. 同上、p.29
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  10. 同上、p.24
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  11. 当サイト訳。出典は、Wikiquote( SØren Kierkegaard)。英語の文献では引用している文献が複数あったが、何が根拠になっているかまでは確認できなかった。また、ピーター・ヴィルヘルム・ルンドはキルケゴールの義理の兄弟である。
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  12. カミュ、2009、清水徹訳、『シーシュポスの神話』、新潮文庫、p.12
    カミュはこの文章の前文に「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。」と書いているため、「人生が生きるに値するか否か」に結びつかないように思われる。自殺は、もちろん原因が究明され、多くは経済的な原因となっている が、根本的な原因は「こんなに苦しいのに何のために生きなければならないのか」という人生の意味の問いに帰結される。カミュはそのように考えていたから、次の文に 「人生が生きるに値するか否か」と続けたのだろう。
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  13. 自己啓発の本では、成功は手段であり、目的と思ってはならないということがよく書かれている。例えば、『普通の人がこうして億万長者になった』(本田健) や『金持ち父さんの子供はみんな天才』(ロバート・キヨサキ) などである。『ボヴァリー夫人』で有名なフランスのギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert) は、「成功とは結果であって目的ではない」と言っている。また、世界的に有名なジョン・レノンは「ビートルズは成功し、ツアーをやめ、欲しいだけの金や名声を手に入れ、最後に、自分たちは何も手にしていないことに気づいた」と言っている。挙げだせば例には切りがない。
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  14. ラッセル、2007、安藤貞雄訳、『幸福論』、岩波文庫、pp.56-57
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  15. 成長とは、過程であり、目的にはならない。我々が問題にしているのは、成長してどこに向かうか、である。
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  16. 岸本英夫、2011、『死を見つめる心- ガンとたたかった十年間』、講談社文庫、p.184
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  17. 佐藤瑠威、2014、「哲学とは何か- 生きる意味の問題をめぐって- (1)」、『別府大学紀要』第 55 号、別府大学会、p.194
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  18. 英語で「人生の意味」は、meaning of life と meaning in life の表記がある。浦田は meaning of life を人類や世界全体の存在理由に関する概念であるとして「人生の意味」と訳し、「meaning in life」は、個人的・日常的な価値に関する概念であるとして「生活の意味」と訳し、区別している。但し、先述の通り、日本語でもこの両者は区別されていないように英語でも区別されて使われているとは限らない( 浦田、 2013、p.43)。本論では「何のために生きるか」が meaning of life に、「どうやって生きてゆくか」が meaning in life に相応する。
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  19. 「生きる」のは何のためか→お金のため( お金は何のためか) →食べるため( 食べるのは何のためか) →生きるため というように循環するものも多い。そうでなければ無限後退する。具体的な内容については、また後に詳述することになる。
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  20. 小林司、1989、『「生きがい」とは何か- 自己実現へのみち』、NHK ブックス、p.72
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  21. V.E.フランクル、2014、中村友太郎訳、『生きがい喪失の悩み』、講談社学術文庫、 p.52
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  22. 実存的真空とは、同 p.14 に、「フロイトの時代におけるように性的な欲求不満と対決しているわけではなくて、実存的な欲求不満と対決しています。また今日の典型的な患者はもはやアドラーの時代におけるように劣等感にさほど悩んでいるわけではなく、底知れない無意味感に悩んでおり、そしてこれは空虚感と結び合わされているので、私は実存的真空と呼んでいる」とある。フランクルによれば、実存的真空は、生きる意味への問いとなって現れるが、これは病理的なものではなく、「人間における最も人間的なものの表現」にほかならない。
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  23. 松平実胤、1997、『喜び上手: 仏教に学ぶ生きるヒント』、鈴木出版、p159
    不足の時代とは、物が足りず貧困な人が多かった時代である。しかし、今は物があふれかえり、不足はしていない。しかし、未だ何か足りない気持ちが出て来る。これを未足といい、今の時代は未足の時代であると言われるらしい。
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  24. ジェリー・メイヤー、ジョン・ホームズ編、2005、『アインシュタイン 150 の言葉』、ディスカヴァー・トゥエンティワン、p.37
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  25. 岸本、『死を見つめる心』、p.184
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  26. パスカル、1999、前田陽一・由木康訳、『パンセ』、中公文庫、p.71
    「すべての人が手段についてだけ熟慮して、目的についてそうしないのは、嘆かわしいことである。」(断章 98)
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  27. 松井春満、2000、「人間が生きるということ- 教育人間学の視点から」、『総合研究所所報』第 8 号、奈良大学総合研究所、pp.19-20
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  28. T.イーグルトン、2013、有泉学宙・高橋公雄・清水英之・松村美佐子訳、『人生の意味とは何か』、彩流社、pp.25-26
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  29. パスカル、『パンセ』、p.225( 断章 347)
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  30. 考えることは問うということである。問わなければ、動物と変わりがなく、生活しているだけになるから、そこに尊厳は生まれない。したがって、生きているだけが素晴らしいという主張は、人間だけの尊厳とはならない。
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  31. シェイクスピア、1983、小田島雄志訳、『ハムレット』、白水 U ブックス、p.174
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  32. 佐藤透が二つの分類をしているので、それを元にまとめる。( 佐藤透、2012、『人生の意味の哲学- 時と意味の探求』、春秋社、p.89)
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  33. 同上、pp.95-97
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  34. V.E.フランクル、2010、『夜と霧 新版』、みすず書房、pp.128-157
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  35. George Bernard Shaw、1903、Man and Superman( 邦訳は『人と超人』で喜志哲雄訳白水社  1993 年がある。)、p.174( 本文は wikiquote より引用) 日本語訳は、「人生には二つの悲劇がある。一つは夢を叶えることができなかったときである。もう一つは夢を叶えたときである。」( 筆者訳)
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  36. 佐藤透、『人生の意味の哲学- 時と意味の探求』、pp.96-97
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  37. J.S.ミル、2008、村井章子訳、『ミル自伝』、みすず書房、pp.3-34,112-121
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  38. 浦田は、「永遠の問いとして」、「現代的な問いとして」、「学問上の問いとして」と分けて論じている。永遠の問いとしての人生の意味は、本節では普遍的な側面にあたり、学問上の問いとしては哲学的な側面にあたる。浦田は「永遠の問いとして」の中で主に時間的な観点から、昔から今まで問われ続けている人生の意味という問いを示した( 浦田、2013)。しかし、本節における普遍的な側面とは、時間だけでなく空間的にも、すなわち過去から現在、未来にわたる全ての人が問うべき、考えるべき重要な問いとしての人生の意味の側面である。
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  39. トルストイ、『懺悔』、p24
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  40. フランクル、『生きがい喪失の悩み』、p.14
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  41. フランクル、『生きがい喪失の悩み』、pp.203-204(諸富祥彦の解説)
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  42. 鶴見済、2008、『完全自殺マニュアル』、太田出版、p.7
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  43. 諸富祥彦、1999、『むなしさの心理学』、講談社現代新書
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  44. メッツはまず大きく超自然主義と自然主義の二つの立場に分け、自然主義をさらに主観主義と客観主義に分けている。超自然主義とは、人生の意味をスピリチュアルな領域と結びつけて考える見解であり、自然主義は科学的な方法によって人生は有意味になると考える見解である。
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  45. 森岡正博、2015、「『人生の意味』は客観的か: T・メッツの所説をめぐって 生命の哲学の構築に向けて( 7)」、『現代生命哲学研究』、大阪府立大学 21 世紀科学研究機構現代生命哲学研究所、p.84
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  46. 同上、pp.84-85
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  47. 真・善・美を兼ね備えた人生こそが客観的に意味を持つ人生であるという主張である。
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  48. 同上、pp.87-90
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  49. トマス・ネーゲル、2009、中村昇( 他) 訳、『どこからでもない眺め』、春秋社、 pp.341-344
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  50. ネーゲル、『どこからでもない眺め』、pp.350-357
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  51. ここで、カミュが本質的な問題と言っているのは、人生の意義のことである。人生の意義( =人生の意味) は無いと分かるや人を死なしめ、あると分かれば生きる情熱を何十倍にも膨れ上げさせるものであるため、このように言っているのであろう。
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  52. カミュ、『シーシュポスの神話』、p.13
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  53. ただし、森岡は、生命学は人生論などとは異なり、一般的な人生の意味や目的に答えを与えるものではなく、それらは一人一人が責任を持ち答えなければならないとしている。
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  54. 例えば、デイヴィッド・ベネター( David Benatar)は Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence. ( 2006) の中で、全ての人間は生れてこなかったほうがより良かったということを論じているが、そのような考えは「悔いなく生き切る」ことの弊害となる。また、そのことについては、森岡( 2012) がベネターの議論の誤謬を指摘している。
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  55. 以上は、下記の文献を参照。
    森岡正博、2007、「生命学とは何か」、『現代文明学研究』第 8 号、pp.447-486
    森岡正博、2011、「誕生肯定とは何か: 生命の哲学の構築に向けて( 3)」、『人間科学』第 6 号、pp.173-212
    森岡正博、2012、「『生まれてこなければよかった』の意味: 生命の哲学の構築に向けて( 5)」、『人間科学』第 8 号、pp.87-105
    森岡正博、2013、「『生まれてくること』は望ましいのか: デイヴィッド・ベネターの『生まれてこなければよかった』について」、The Review of Life Studies、第 3号、pp.1-9
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  56. ここでは、人生の意味が実現できるものという前提で語っているが、そもそも実現できるものなのかどうかなどの議論は後述する。
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  57. 人生の意味は「生きる意味」であるから、「死んでもいい( 自殺が可能な) 意味」があっては困る。自殺は、生きることもできるのに死を自ら選ぶという点において、他の死よりも特徴的である。
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  58. James. Warren、2001、Socratic Suicide、The Journal of Hellenic Studies 、Vol.121、pp.91-92
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  59. パスカル、『パンセ』、p.260( 断章 425)
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  60. ヒルティ、1978、草間平作訳、『幸福論( 第 1 部)』、岩波文庫、p.206
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  61. トルストイ、1997、中村融訳、『人生論』、岩波文庫、p.42
    同書 p.37 には「人は誰しも生きる以上、ひたすら自分のために善かれと思い、自分の幸せを願っている。人が自分に幸せを望む気持を感じないとしたら、それは自分を生きているものと感じていないことだ。人は自分への幸福をねがう気持ぬきにしては、人生を想像することはできない。誰にとっても生きるということは、幸せを望み、それを得ようとすることにほかならない。」と書いている。
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  62. アラン、1998、神谷幹夫訳、『幸福論』、岩波文庫、pp.311-312
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  63. ハンナ・アーレント、1994、佐藤和夫訳、『精神の生活( 上)』、岩波書店、p.191
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  64. ショーペンハウアー、2011、斎藤信治訳、「現存在の虚無性に関する教説によせる補遺」、『自殺について 他四篇』、岩波文庫、p.36
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  65. セネカ、『生の短さについて』、pp.133-134
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  66. 同上
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  67. 同上
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  68. エピクロスは快楽主義の筆頭としてよく挙げられるが、エピクロスの快楽主義はここでいう快楽主義とは別物である。
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  69. なぜここで道徳的・倫理的行動が禁欲主義的な行動となるのかというと、我々は本質的には欲望でしか動かない生き物だからである。したがって道徳や倫理を守ろうとすると必ず何かしら欲求を抑えることになる。
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  70. 不可能ではあるものの、経済学が追求するのは有限な時間・資源の中でいかに無限の欲望を満たすことかであり、多くの人が一時的であれ幸せを感じるためには大切なことである。
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  71. 「欲求の肥大化」「欲望の無限化」とも言い、社会学の観点から論じている。
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  72. ラッセル、『幸福論』、p.179
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  73. パスカル『パンセ』、pp.112-113( 断章 165 の 2)
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  74. また、無関心な知的立場も審美的実存に入り、キルケゴールはヘーゲル主義をそのように位置づけている。( 山下秀智、『宗教的実存の展開』、p.54)
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  75. あえて「他人のために」と書いたのは、「自分のために」と欲望から善をする者もいるからである。
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  76. カミュ、『シーシュポスの神話』、p.63、「ある注釈者はシェストフのつぎのような言葉を伝えているが、この言葉は注目に値する。『唯一の真の突破口は、まさしく、人間の判断するかぎり突破口など存在しない所にある。そうでなければ、どうしてわれわれは神を必要としよう。ひとが神へと向うのは、ただ、不可能事を獲得したいためにほかならない。可能事についてなら、人間でこと足りる。』」
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  77. もし比較対象がなければ、それは絶対的なものとなるため、その幸せが揺らぐことはない。得た幸せが揺らぐということは絶対的ではなく、相対的なのである。
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  78. ハンナ・アーレント、『人間の条件』第五章「活動」を森一郎が訳したもの。( 森一郎、1998、「哲学にとって死はどこまで問題か」、『東京女子大学紀要論集』、49 巻 1 号、p.18
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  79. ヒルティ、『幸福論』第 3 部、岩波文庫、p.10
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  80. アリストテレス、2014、神崎繁訳、「ニコマコス倫理学」、『アリストテレス全集15』、岩波書店、pp.18-61
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  81. ただし、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で eudaimonia として考えているものは「いかに生きるか」の範疇のものであり、言葉の由来も「善き活動」と結びつく表現であるため、日本語の幸福とはズレがあるのだが、さしあたり本節では概念だけを借り、アリストテレスが何を意図していたかまでは触れない。
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  82. 岸本、『死を見つめる心』、p.40
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