3-1 仏教の説く死後(理論)

 第 1 章で、我々は出来る限り理性を判断基準にし、考えなければならないと述べた。理性を判断基準にするということは、誰でも納得できる論理に従うことである。死後についてだけ飛躍的で、何の説明もなく神を持ち出したり、彼岸を持ち出したりするのは明らかに論理的ではない。それは、思考の判断停止であり、人間の判断では不可能だとはじめから議論を放棄してしまっていることに等しい。では、何を基にして死後について考えたらいいのか。論理的に死後を語るのに有用だと思われる考え方の一つは因果律である。

 因果律は、昔から使われてきた論理の一つである。因果律とは、一切のものは原因があって生じているという考えである。科学は原因と結果の関係を考えずには発展しなかっただろうし、学問もまた因果律なしでは展開しなかったであろう。因果律を基に死後を論じることは合理的であり、それによって何かを証明できたならば、誰にでも理解できるはずである。 2000 年以上も前から仏教はこの因果律を説き151、論理的に死後を説いている152。本節では、仏教が明らかにする死後について、因果の道理、空思想、唯識を順に説明し、明らかにする。本章は、因果律が正しいとするならば、という前提で進んでいく。因果律自体がそもそも正しいのかどうかの議論は置いておく。

各ページにおける章・節・項の表し方

章ー節ー項
ex. 1-2-3 → 第1章の中の第2節の中の第3項
ex. 1-2 → 第1章の中の第2節

第1節:仏教の説く死後(理論) ←現在地
 第1項:因果の道理
 第2項:無我と空
 第3項:唯識

第2節:仏教の説く死後(具体)
 第1項:理論の補足
 第2項:六道輪廻とその原因

第 1 項:因果の道理

 仏教では因果律のことを因果の道理とか因果の法、たんに因果などと呼ばれる。原因無くして結果は無く、すべての結果には必ず原因がある。また、原因があるならば必ず結果が生じる、≪因あれば果あり≫というのが因果の道理である。因果の道理は一切経153において最も基本的かつ教えの根底に流れている考え方である。

仏教は因縁を宗と為す。仏の聖教は浅より深に至るまで一切法を説くに因縁の二字を出でざるを以てなり。154

現代語訳:仏教は因縁を宗とする教えである。仏教は分かりやすいものから深い難しいものに至るまで、全ての教えを説くのに因縁から外れた教えはないからである。

首楞厳義疏注経

法は皆因縁に属す。155

勝思惟梵天所問経

一切の仏法は皆な是れ因縁の義なり。156

中観論疏

 因果の道理は、正確に言えば、原因(直接的原因)と縁(間接的原因)が結びついて結果が生じる道理である。因があっても縁が伴わなければ結果は生じない、とするのが仏教の因果の道理であるため、因縁とか縁起の法とも呼ばれる。故に、何かが存在するならば、必ず因と縁が結びついてそれは生じているのである。

一切法因縁生(一切法は因縁生なり)157

現代語訳:一切のもの158 はすべて因と縁が和合して、生じたものである。

大乗入楞伽経

 因縁果の道理に例外は認めず159、それぞれを六因・四縁・五果と細かく分類して教えられる160

 さらに因果の道理は「もの」については然ることながら、「私」に関する道理 として教えられる。それは一般に知られる自業自得の教えである。自業自得とは、私の上に起こる結果の原因は全て私にあるという因果応報のことである。

 では、仏教は死後について因果の道理からどのような立場をとるのか。死後について考える前に、我々の生まれる前について考えてみたい。「私がこの世に生まれた」というのは一つの結果である。結果には必ず原因がなければならない。すると、生まれる前が無であったということは絶対にない。無から有は生まれないからである。だから、生前はどんな形であれ、何らかの原因となるような状態があったと考えられる161。これは無限に続けることができるから、我々は無始より存在する者であることが分かる。では、死後はどうなるか。生前と同じように考えれば、我々がこの世で死ねば、死後は何かがまた別の形として存在すると考えることができる。しかも、それが延々と果てしない未来まで因と果で続くため無終の存在なのである。仏教では我々の存在を無始無終の存在だと捉えるのである。故に、死後あるかないかについては、死後存続するものがあるという立場が仏教である。

 しかし、誤解を防ぐために、より厳密に言えば、仏教では、死後は有るのでもない、無いのでもないという中道162をとる。死後が無いという考え方(仏教で断見という)は、先述により因果の道理に反するため間違いであるということは分かるであろう。では、なぜ死後は有る(仏教では常見という)という考え方は間違いなのか。これには、無我・空思想を知る必要がある。

第 2 項:無我と空

 仏教では諸法無我を説く。無我とは、「我は無い」という意味ではなく、「我では無い」という意味である。故に、誤解を防ぐために無我ではなく、非我( 我に非ず)と訳すこともある163。我( アートマン)とは、実体ある不変のもの( 常住)、それだけで存在しているもの(単一)、我々を思いどおりにコントロールするもの( 主宰)のことである164。釈迦在世中、インドの哲学では、個人の我を最重要視し、我々の本質は我であると主張していた。現代で言えば、魂があるという考え方や死後も存続する私なるものという考え方が当てはまる。この我を否定し、我々にはそのような我というものはないと説明するのが無我説である。

すべての事物は我ならざるものなり。

『ダンマパダ』第二七九偈

 これは他の宗教・思想には無い考え方であり、仏教の特徴的な教えであるため、三法印の一つ「諸法無我の印」として教えられる165

 なぜ無我と言えるのかというと、全てのものは縁起によるからである。

法は皆な因縁に属す。自ら定まりし根本無し。166

勝思惟梵天所問経

 諸法( 全ての事物)は因と縁が和合したものであるから、何もなく存在し、永遠に続く我というものはないのである167。さらに、因縁によって生じたものは諸行無常168である。諸行無常とは、全ての作られたもの(有為)は常に同じ状態では続かないということである169

 では、この目の前にある肉体は一体何なのだろうか。この体(脳も含める)は私ではないのだろうか。肉体のことを仏教で五蘊と言われる。人間は色蘊(感覚器官)・受蘊( 感受)・想蘊( 表象作用)・行蘊( 衝動的欲求)・識蘊( 認識)から成る。この五つにより、個人の存在全体を表し尽くしていると考える。この構成要素の集まりには、我という実体はないというが、それはどういうことか。例えば、机について考えてみる。この机は、木材で作られ、脚と板を組み合せて作られたものである。この作られたもの 4 つの脚があり、物を載せたり、ご飯を食べたりできるこの物体を我々は「机」と名付けたのである。故に、解体されてしまったならば、それを机とは言わない。このように、仮に「机」という名前をものに設定しているので「仮設」と呼ぶ。「掻き寄せて結べば柴の庵なり解くればもとの庵なりけり」という古歌はこれをうまく言い表している。肉体も机と同じようなもので、そこに我と呼ばれるものはない。有機物の塊、さらに細かくすれば元素が一定の比率で組み合わさった塊を「私」と名付けているにすぎないのである。これを五蘊無我という。

 このように、有情(人に限らず生きもの全体)には我( 自己・自分)というものはないとすることを人無我(補特伽羅無我あるいは生無我とも)という。部派仏教では、人無我、法有我と主張していたが、大乗仏教では、法もまた空( 無我)であるという立場をとった。これを人法二無我とか我法倶空という。空とは、全てのものには、名前に対応する実体そのものはないということである170。法も道理も有るとか無いということは無意味で、空ということすら空じられなければならない。故に空の見解( 空見)171は経典でも各所で否定されている。空というのは真実の一表現であり、考え方ではないのである。 諸法無我と同じように、諸法皆空と言われるが、これは我々の見ている世界は実体がないということである。では、目の前に広がるこの世界は一体どう理解したらいいのだろうか。例えるならば、我々が見ている世界は夢や幻のようなものなのである。

三界を観察するに、一切は夢幻の如し。172

入楞伽経

しかし、実際に見ている世界はリアリティを持ち、夢のようには感じない。これを『成唯識論』では、このように説明される。

情には有れども理には無し(情有理無)
非有なれども有に似たり(非有似有)
仮には有れども実には無し(仮有実無)

成唯識論

 我々には「私」も「世界」も実際に存在するかのように映っている(情有)が、本当は存在しているのではない(理無)。本当は存在するのではないが(非有)、あたかも存在しているかのように見える(似有)。名前をつけて呼ぶため、あるように思うけれども(仮有)、そのような名前のものが実在するわけではない(実無)173

 別の角度から考えてみると、我々は世界を相対的に知覚する。例えば、100m はそれ自体では短いか長いか分からない。1km に比べれば短いが、10cm に比べれば長い。距離というものはあるわけではないが、比べれば知覚可能なため、ないわけでもないのである。本質が空とはそのようなことをいうのである。本当は「世界」と言われるものが存在するわけではなく、五感を通して相対的に知覚しているものが世界として目の前に現れているのである。

 無我・空の内容をまとめると、「全てのものは縁起によって生じる。縁起によって生じたものは無自性(本質はない=無我)、よって全てのものは空である」。 死後の議論に戻すと、なぜ死後が有るのは間違いかということであった。我々の凡智では、死後は有ると聞いて考える死後は、どう想像しても我のあるものにしかならない。釈迦はどちらでもないと説いていたにも関わらず、釈迦の死後、インドでは断見、常見の外道が跋扈していた。それを悉く破邪したのが八宗の祖師174、龍樹(ナーガルジュナ)であった。

龍樹大士出於世  悉能摧破有無見
(龍樹大士世に出でて、悉く能く有無の見175を摧破せん)176

顕浄土真実教行証文類

 龍樹菩薩が世に生まれ、死後に関する間違った考え方(有無の見)を悉く砕き破った177。その時、釈迦の真意を明らかにするために、空という思想を展開していったのである178

 釈迦も龍樹も、死後は有るのでもなく無いのでもない( =空である)と説く。よく「釈迦は死後について、何も言及しなかった」と言われることがあるが、その正しい理解は、死後については言葉を超えてしまっている(離言真如)ため、言葉にした時点(依言真如)で真実からは離れてしまうため、「有る」、「無い」、 「有るかつ無い」という主張をしなかったということである。死後の真実を正しく伝えるために両者の取った方法は、主張ではなく、否定であった。四句分別や両刀論法(ディレンマ)を使うことで、「そうではない」のが真実であると説いたのである。

もしもわたくしに何らかの主張があるならば、しからば、まさにそのゆえに、わたくしには理論的欠陥が存することになるであろう。しかるにわたくしには主張は存在しない。まさにそのゆえに、わたくしには理論的欠陥が存在しない。

ナーガールジュナ『異論の排斥』 179

 故に、言語道断、想像すらもできないのであり、「有るのでもなく、無いのでもない」としか言い様がないのだが、それでは我々には到底理解できない。有と無の二元論ではどちらかにしか陥らないからである。 そこで唯識思想が登場する。唯識では、有と無以外に、もう一つの道を提示する。すなわち、「無自性(無我・空)でかつ何らかの意味で有でありうるもの(非無)180」という世界がなければならないというのである。これは実体的に有ではありえないが、決して無でもないという世界である。中観派の教説で言えば、縁起の世界がこれにあたる。つまり、唯識によって因果の道理にも、無我・空思想にも矛盾を孕まず、整合的に(死後の)世界の構造が明らかになったのである。

第 3 項:唯識

 本項では、唯識から死後を考える。多少、意味論からずれ、教科書的になるが、死後を論理で考えるために必要なので、詳説する。

 西洋哲学では、元来、初めに物があり、心がそれを認識し、そこに世界があるという主客二元論をとってきた。しかし、唯識では、ただ識のみがあり、そこに諸法があるのだと考える181。ショーペンハウアーが仏教を学んでいたことはよく知られているが、それが次の言葉にも現れている。

「世界はわが表象である」という私の第一命題からして、さしあたり次の帰結が出てくる、―「最初にあるのは我で、それから世界があるのだ」。思うにひとはこのことを、死を破滅と混同することに対抗する解毒剤として堅持しておくべきであろう。182

ショーペンハウアー

 我々が言語表現(仮説)をするのは、「ものそのものに対してではなく、識の描きだしている世界に対して」であり、「かつ実体としての我や法そのものは何ら存在していない」183。しかし、仮説というのは、必ず何らかの実有を拠り所としなければならず、所依のない、無の上になされる仮説はありえない。そこで、唯識は無でもなく実体があるわけでもない、「識の転変」を仮説の所依の世界として説明するのである。

三界虚妄。但是心作。十二縁分。是皆依心。

『華厳経』184

我・法に関する種々の言語表現がなされるが、それはすべて識の転変においてである。

『唯識三十頌』185

 識の転変とは、三種の識が変化するということである。『唯識三十頌』では、「異熟」、「思量といわれるもの」、「対境の了別」と識を三種に分ける186。これは具体的には八識のことであり、八識とは六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)と末那識、阿頼耶識のことである。

 まず眼識・耳識・鼻識・舌識・身識は、前五識とも言われ、五感の識である。それぞれ、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根の五根という感覚器官( 感覚能力)によって、色・声・香・味・触の五境( 認識の対象)を感覚する。この前五識と倶に起こり、前五識の働きを明瞭にするのが意識である。意識は意根により法( 一切の事物)を認識するのだが、前五識とは異なり、三世( 過去・現在・未来)を対象とし、前五識が無分別なのに対し、分別が盛んである187。言語活動も意識の特徴である。意識は、ほぼ常に働いているが、深い禅定や深い睡眠、気絶のときには起きない。これら六識を「対境の了別」と言っている。我々は第六意識までは感じることができる。

 第七番目は末那識(思量)である。これは我執の働きを持つ識であり、我というものを作り上げ、それに執着する後天的な執着だけでなく、先天的にも第八の阿頼耶識を対象とし、阿頼耶識が自分であると執着し続ける。この執着は恒常的であり、睡眠中でも深層において絶えず働き続けている。

 八番目が「異熟」と言われる阿頼耶( アラヤ)識である。この第八識は内容に応じて、様々な名で呼ばれる。アラヤとは、住処の意味であり、蔵のことである。故に蔵識とも訳される。蔵とは能蔵・所蔵・執蔵である。能蔵とは、一切の業の種子を保つということである。竹村は「この阿頼耶識理論の最大の意義は、やはり業の説明」であり、世親が『成業論』において「阿頼耶識がなければ業が成立しえないことを細かく論じている」と述べている188。所蔵とは、業の結果が種子として熏じつけられる場ということである。執蔵とは、末那識によって自我と執着される対象ということである。 ここで業について、説明を加える。業(カルマ、karman)は行為を意味するが、仏教は、まず業( 行為)を二つに分ける。意業と思已業である。意業とは心意作用のことで、思業189とも言われる。思已業とは、身業( 身体的行為)、口業190(言語表現)のことである191。これを身口意の三業という。さらに、身業と口業は外に示される表現行為(表業)であると同時に、それは無表現行為(無表業)を残すため、それぞれ二種ずつある。意業にはそれらの区別がない。これらを合わせて五業と呼ぶが、ここでは表業と無表業を含めたものとして、三業という表現を使う。我々の行為は全て三業のいずれかであるから、全ての行為は業と一言で表される。人間は無行為でいることはないため、三業を離れては生きていけない。また、業は我々の将来に影響を与える。それを自業自得という。自分の行為に よって、自分が果報を受ける。自分の受けている現在の結果は、自分の過去の行為によって生じたものということである。しかし、この受ける自己(私)は無我であり、実体的な存在ではない。そこで、因果応報と無我説とを矛盾なく説明するためには、まず時間をどのように捉えるかが大事になってくる。仏教では時間の最小単位を刹那と言い192、全てのものは刹那毎に生滅を繰り返していると説く。これを刹那生滅(刹那滅)という。したがって、過去も未来もなく、現在しか存在しえない。現在といっても生まれてから死ぬまでの現在世ではなく、線でしか表せない一刹那、一瞬間のことである。すると、今行った行為は次の一瞬間には消滅してしまうため、未来に影響を及ぼすとは到底考えられない。それを熏習によって説明する。熏習とは、何の香りもしない服にお香を炊いたり、香りのするものを一緒に置いておいたりすると、香りが染みつき移るようなことである。衣服と同じように、我々が行為をすると、すなわち、阿頼耶識以外の七識が生起し活動を行う(現行)と、阿頼耶識に何らかの形で染みつけられるということである。その熏習された経験を習気という。この習気が諸縁によって、その習気に相応した未来の経験(結果)を産出するため、植物の種子に例え種子(しゅうじ)という193。植物の種子が環境によって発芽し、開花するように、阿頼耶識に刻印された種子は縁さえくれば必ず七識として現行する194。現行が種子を第八識に熏習し、種子は七識として現行を生じることを「現行熏種子 種子生現行」という。現行が生じるのと種子として熏習されるのは同時である。よって、刹那滅である識において、一刹那の間に、種子(因)が現行(果)として生じ、その現行( 因)が種子( 果)として熏習されることが同時に行われているのである。これを「三法展転 因果同時195」という。もちろん、全ての種子が次の刹那に現行を生じるわけではなく、現行を生じない種子は次刹那に全く同じ種子を阿頼耶識に生む。これを「種子生種子」という。ただし、種子と識はどちらが先にあったかということに関しては、無始とする。

 このような種子を一切保っているため、阿頼耶識のことを一切種子識とも言う。ここまで述べてきた種子を名言種子といい、これが自己の身心や自然界を生成する。この名言種子において、善悪の性質を持ったものを業種子といい、善因楽果悪因苦果に相応するのはこの業種子である。

 では、この種子を保つ阿頼耶識に実体が無いとはどういうことか。識は全て刹那滅であるということで説明ができているかのように思うが、さらに説明を加えてみる。世親は『唯識三十頌』の中で、「恒転如瀑流( 恒に転ずること瀑流の如し)196」と喩えている。これは阿頼耶識の何を喩えているのかというと、『成唯識論』ではこのように説明される。

阿頼耶識為断為常。非断非常以恒転故。197

成唯識論

 流れる河に手を入れてみれば、水の流れはつねに感じられるが、同一の水が ( 常住する)わけではない。一瞬一瞬流れ去る。しかし、そこに間断(断絶)があるわけではない。また、河というものがあるわけでもないが、河がないわけでもない。阿頼耶識も同じように、ずっと同一であるわけではないが、間断なくあり続け、阿頼耶識というものがあるわけではないが、一刹那ごとに変わり続けている阿頼耶識は存在する。龍樹の八不中道では、八種の否定を通じて中道を明らかにしているが、阿頼耶識はまさにそれを満たすものなのである。八不とは「不生、不滅、不常、不断、不一、不異、不来、不出」である198。詳しい説明は省略する。

 以上から、死後についての内容をまとめる。因果の道理により、我々は無始より無終の存在であるが、その存在を存在たらしめているのは阿頼耶識であり、業である。阿頼耶識は、「一切は空である」を「一切は無である」と誤解する悪取空の者や「死後は無である」という者に対して、「無ではない」ということを主張するものである。また、識は刹那滅で常に転変しているため、有でもない。有でも無でもない中道の世界を識の転変によって説明するのが唯識なのである。一切は識であり、識の最下層にあるのが阿頼耶識である。他の識は現行するや否や、その経験が阿頼耶識に熏習され、種子として一刹那ごとに保ちながら恒常的に続いていく。この種子が縁に触れ、( 私の)世界を生成し、( 私の)未来を生み出す。それは今生きている世界だけでなく、死後も同じである。

 次節に入る前に、死後からは話が少々ずれるが、一つの疑問を解決しておく。それは、「なぜただ識のみで、この世界は一人一人の阿頼耶識が生みだしたもの であるのに、共通のものを見て、共通の理解を持てるのか」という疑問である。 これを唯識では、共相の種子で説明する。共相の種子とは、共通の相を生み出す 種子のことである。今、自分と同じ世界に生まれ、同じものを見ている他人は、皆自分と同じ相を作り出す種子を阿頼耶識に持っているということなのである。

脚注
151 「因果」という言葉は、シナ古代の古典には見当たらないため、仏教以後の言葉であり、仏教独自のものと考えられている。(中村元ら、1982、『仏教思想 3 因果』、p.6、 p.52)
152 仏教には仏教論理学とも言われる因明という論理学がある。因( 根拠)をもって、真偽を判定しているのが仏教という学問なのである。
153 一切経とは、全ての仏教の文献のことであり、「大蔵経」とか略して「蔵経」と言われたりする。大蔵経に編入されていない仏教の文献は「蔵外」と言う。
154 『首楞厳義疏注経』( 大正蔵 三九・八二五 a)
155 『勝思惟梵天所問経』( 大正蔵  一五・八七 a)
156 『中観論疏』( 大正蔵 四二・五 c)
157 『大乗入楞伽経』( 大正蔵 一六・六〇〇a)、他にも『大智度論』( 大正蔵 二五・四九一 b)など
158 仏教で「法」とは、(1)存在するもの(2)教え(3)真理の三つの意味がある。ここでは、(1)の意。しかし、これらは互いに無関係ではない。というのも、「教説とは存在するものについての教えであり、存在するものが存在するものとのかかわりのなかで教説を道標として『存在するものの真理』に到達することができる」からである。(横山鉱一、『唯識とは何か』、春秋社)
159 故に、原因を遡行した先の最高の、究極の原因は認めない。
160 詳しい説明は他に譲る。
161 私が生まれたという結果は、母親が原因で父親が縁ではないか( もしくは逆) という考え方もあるが、両親は縁である。というのも、同じ原因、同じ縁がそろえば何時でも何処でも何人にも同じような結果が生じるからである。( 参考:『因果』pp.57-58)
162 中道とは、「決して『ほどよさ』を意味する中間の道ではなく、両極を見なければ見えない道」であり、「両極の中間にあるのではなく、両極の無限の緊張を統一して成る立場なのである」。( 山下秀智、『宗教的実存の展開』、p.38)
163 無我とは、「我は無い」という意味ではなく、「我では無い」という意味である。故に、誤解を防ぐために無我ではなく、非我( 我に非ず) と訳すこともある。
164 これを常・一・主・宰という。
165 印とは旗印のことである。それが仏教かどうかを判断する目印になるものとして「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三つを「三法印」として教えられる。「一切行無常、一切法無我、涅槃寂滅」(『雑阿含経』大正蔵 二・六六 b)。これに「一切皆苦」を加え、「四法印」と呼ばれることもある。
166 『勝思惟梵天所問経』( 大正蔵  一五・五四 a)
167 現代物理学では原子よりも更に微細な電子やクォークといった素粒子を発見している。だが、仏教では初期から極微という概念を説き、どれだけ最小の粒子を見つけてもそれをさらに分割できると説く。全てのものが和合して生じているということは、最小というものは無いのである。あえて言えば、素粒子は暫定的な最小単位であり、今後さらに小さい粒子が見つけられる可能性はあるだろう。
168 諸行無常とは言うが、諸法無常とは言わない。諸行とは「すべての作られたもの」ということであるが、諸法とは「すべての事物」を指す。諸法には無常や涅槃も入るが、無常や涅槃が無常であるとは言わない。しかし、「無常」という存在や「涅槃」という実体があるわけではないので、これらが無我であるということは言える。
169 「作られたもの」とは、因と縁によってできたということである。
170 無我とほぼ同義である。
171 空を無の意味に解することを空見ともいう。どちらにせよ、空見は誤りである。
172 『入楞伽経』( 大正蔵 一六・五三二 b)
173 可藤豊文、2000、『瞑想の心理学- 大乗起信論の理論と実践- 』、法蔵館、p.85
174 倶舎宗、成実宗、律宗、法相宗、三論宗、華厳宗の南都六宗に天台宗、真言宗を加えた八つの宗派において祖師と仰がれる。
175 死後を断った考え方(断見)は無の見とも言われ、死後があるという考え方(常見)は有の見とも言われる。
176 『顕浄土真実教行証文類』( 大正蔵  八三・六〇〇b)
177 龍樹の時代には、仏教の内部でも小乗仏教の説一切有部と呼ばれる学派が常見であり、その誤解を小乗仏教から大乗仏教に進んだ龍樹が破邪したという背景もある。
178 原始経典の中にも空の思想は見られるため、小乗仏教の過剰な解釈、歪曲から釈迦の真意を明らかにしようと思想を展開したのであろう。(梶山雄一、1992、『空入門』、春秋社、pp.12-13)
179 中村元、2002、『龍樹』、講談社、p.129
180 竹村牧男、2001、『唯識の構造』、春秋社、p.9
181 世親の『唯識三十頌』はこのことを論理的に証明するために書かれた。
182 ショウペンハウエル、「我々の真実の本質は死によって破壊せられえないものであるという教説によせて」、『自殺について』、p.12
183 竹村牧男、1992、『唯識の探求- 「唯識三十頌」を読む- 』、p.61
184 『華厳経』( 大正蔵  九・五五八 c)
185 竹村牧男、『唯識の探求』、p.40
186 「その転変とは、三種であって、異熟と、〔我の〕思量といわれるものと、対境の了別である」(『唯識三十頌』)
187 ここでいう分別とは「思慮がある」という意味ではなく、「認識判断作用」のことである。したがって、無分別とは思慮がないという一般の意味ではない。
188 竹村牧男、『唯識の探求』、p.68
189 意業の本質は思( 意思) であるため、思業とも言われる。
190 語業とも言われる。
191 身業も口業も意思(意業) から生じたものであるため
192 刹那は計ることができる時間ではなく、線のようなものである。
193 厳密に言うと、種子の六義、すなわち、刹那滅、果倶有( 同一刹那に果を生む)、恒随転(相続して間断がない)、性決定(性質が同一)、待衆縁( 縁が和合するのを待って果を生じる)、引自果( 種子は必ず自らの結果を生じる) が条件としてある。同様に能熏、所熏についても精密に定義されている。
194 このように阿頼耶識から転じて七識として現行するため七識のことを七転識とも言われる。
195 護法、『成唯識論』(大正蔵 三一・一〇a)
196 世親、『唯識三十頌』(大正蔵 三一・六〇b)他にも「一切種子如瀑流」( 無著『摂大乗論』大正蔵 三一・一三三 b)とか「阿頼耶識如瀑流水」(『大乗入楞伽経』大正蔵 一六・五九四 b)などがある。ちなみに、伝統的には暴流は煩悩を譬えるものとして、『華厳経』や原始仏典に見出される。(吉村誠、2012、「『成唯識論』における阿頼耶識の譬喩について」、『印度学仏教研究』第 60 巻第 2 号、pp.234-240
197 護法、『成唯識論』(大正蔵 三一・一二 c)
198 龍樹、『中論』(大正蔵  三〇・一 c)

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